見出し画像

26.ローマ1:30-32 死に値する行為

人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。

ローマ人への手紙1章30₋32節、新改訳聖書2017

神の目には、どのような悪行が死に値すると映るのでしょうか。

パウロが記しているこれらのさまざまな「悪行」は、神に反抗した心から生じるもの。その「心」が神に反抗していることは、これらの「悪行」とされる事柄から明らかなのです。

これらは、決して神のいのちにふさわしいものではなく、死に値するのです。

私たちは、日々の生活の中で、言葉や行動において、常に神の御心を求め、神と心を一つにしているでしょうか。あるいは、神の意志をないがしろにしていないでしょうか。

「自分の親」を認めない以上に、人間の行いの中で自分の創造主である「神を認めない」のですから、命を与えてくれている神の前で「死」に値するのは当然だ、ということなのです。

聖書を知っている多くの人たちは、「十戒」だけ守っていたらそれでいいだろう、と考えているかもしれません。しかし、神は私たちのすべての行動を私たち自身に任せておられるので、私たちの行うことに一切の責任を問われるのです。実際、その行動の中に人間の邪悪さが表れている、とパウロは言うのです。神に弁明することができる人間は、いるのでしょうか。

また、私たちは自分の行いによって神からの死刑を赦されることができないことも明らかです。それで、神ご自身が恵みによって脱出口を用意してくださったのです。

イエス・キリストにおいて明らかにされた、私たち一人ひとりのための神の愛を思い起こしながら、神の御心を求める生活を心がけましょう。

考えてみましょう:人間が神の前に死刑を宣告されるに値する理由は何なのか。死刑の身代金として受け入れられるにふさわしい善行とは何でしょうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?