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はじロー(35)罪にとどまれば恵みがますます多くなる?

はじめて読むローマ人への手紙6章1‐2節

罪にとどまれば恵みがますます多くなる?

恵みとは、神の恩寵がふさわしくない者に与えられることを指しました。

ところが、恵みを説くパウロに反論が出たようです。

「罪人だから、かえって赦しという恵みが受けられる。それなら、なおその恵みを受けることになるように、罪にとどまろう! 」

「どうせ恵みで赦されるのだから、罪にとどまっていても変わりはないだろう」

恵みによってタダで赦される、という教えには、こんな反応もあります。

「まるっきり甘やかしてしまうことになって、人は罪からは立ち返らないんじゃないか、厳罰で罪の結果の痛みを知って、罪をもう犯したくない、と、思い知らせなければだめじゃないか。」

ところが律法が教えているのがまさにそのことでした。刑罰で変えようとしても、変えられるのはその人の行動や行為どまり。その人と神との結びつき、関係を変えることには至らないのです。

律法に刑罰の規定があるのは、その刑罰を実行する力ある神を、人々が恐れることにあります。警察に捕らえられて、刑罰を受けることになっても、神の介在を認知するかどうか。

自分と神との関係が断たれている、ということに気が付かせられて、関係を回復しなければ、と自覚するにいたることと、罪だとされる行為を改めることとは、別なのです

そして、赦しの恵みによって私たちが神から与えられているのは、神との平和、神と共に生きる、というさらに豊かな恵みでした。

聖書に記されている「キリストによる赦し」を信じるなら、同じく聖書に記されている「神が共におられる」ことも信じるはず。自分を愛して、共にいてくださる神を、またあえて無視することなど、できるはずがありません。

パウロが、罪にとどまっていようと言う者に対して「決してそんなことはありません」と言うのは、当然のことなのです。

以前は、私たちは、神に対して死んでいる者でした。しかし、キリストが私のために死んで罪を贖ってくれたことを信じ、受け入れた時に、私たちは罪に対して死んだのだ、と、パウロは言います。

神を神とも思わず、神と無関係に生きる人生にいたことが、罪でした。キリストを信じて神と無関係であることに終止符を打って、神に立ち返ったのです。これが、罪に対して死んだ、ということの意味です。同時にそれは、神に対して生きることでした。

神との関係を保ちながら歩み続ける。それには、律法で培われてきた考え方を逆転しなければならないような、発想の転換が必要になります。それがここから、さらに続いていきます。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

新改訳2017


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