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天国は近づいた

天国って、死んでから行くところとばっかり思っていたけれど、今すぐにでも天国の住人になれる、そこから永遠に、天国に生きることになる、と知らされたのでした。

聖書が教える「目に見えない天国」は、気持ちの問題だけではない。イエス・キリストが到来して、そこに天国があったのです。

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコによる福音書1章14-15節)

「2000年前、イエス・キリストがおられた時にはそうだったかもしれないけど~」、とも思ってしまうのですが、今に至るまで、天国はある! そして、やがて地上に天国ができあがり、目に見える天国に生きることになる、と。その時には、もう死別の悲しみに暮れることもなくなるのだ、と。いやそれだけではなく、再会の喜びすらある、と。

旧約聖書に、ヨセフという人が登場します。イエスの父親もヨセフですが、別人。紀元前1900年くらいに生きていた人物です。

12人兄弟の11番目。複雑な家庭でしたが、父親はヨセフを溺愛するので、兄たちは妬みと憎しみにかられて殺そうとしてしまいます。でもさすがに本当に殺すのは気が咎め、通りかかった隊商に売り飛ばします。父親は、ヨセフが死んだと知らされ、もう生きる気持ちも失せるほどに嘆き続けるのでした。

人の死は辛く悲しいものです。あまりにも多い死のニュースが遠い世界から届けられて、無感覚になりそうですが、実際に身近な死に触れると、やっぱり無感覚にはなり得ない大きな事件だとわかります。

自分が新型コロナ陽性の中、高熱を発症した時、死に対する不安を覚えました。頭の片方では、基礎疾患は何もないからまあ大丈夫だろう、とは思いつつ、それでも死の可能性はゼロではない、というあたりまえの現実に、具体的に直面させられたのでした。

死を予感したのは初めてではありません。

スマトラ沖地震・インド洋大津波の復興支援活動のために、被災地に何度も足を運んだのですが、そこはインドネシアの中で内戦直前までいっていた戒厳令下の地域だったのです。外国人が一人でのこのこ入れるところではありません。

裁判所関連の仕事でドライバーをしていた人が案内、運転してくれる車で現地入りしていたのですが、大通りには戦車が並び、機関銃を持った兵士たちが番をしているところを抜けていくのです。

アチェの海岸に近い村に入る道沿いには、現地の男性たちが集まる小屋があちこちに建っていて、よそ者の車が通ると、じーっと見つめています。反政府運動をする人たちがまだ隠れ住んでいるかもしれない地域で、いつ、何が起きるか、わからない。後部座席に座って、目立たないように、と言われて、支援先に到着するまで息をひそめているような感じでした。

2度目にそこに出かけるとき、部屋を出てドアを閉めるとき、もしかしたらこれが最後になるかも、という思いがよぎりました。

それ以来、どこに行くにも、部屋を出てドアを閉めるときには、これが最後、という気持ちを心の片隅に持ちながら、外出するようになったのです。

どこに出かけるにしても、そこも「天国」なら、そこで何が起きたとしても、それでいい。たとえそれが地上のいのちの最後になっても、家族も今の「天国」に生きているのだから、それでいい。

と、思っていたはずだけれど、また別のことで実際に死の可能性が身近になると、ふと、心が陰るものです。

それはそれでしょうがないなぁ、と思いつつ、でもやっぱり、「天国」に生きていられることは、最後の不安を最終的に取り除いてくれることを、再確認。まあいっか、という感じ。

イエス・キリストが、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28章20節) と弟子たちに語っています。イエス・キリストを心に受け入れるときから、天国の住人となるのです。

東日本大震災から10年。今を天国の現実に生きる道を、ぜひ多くの人に歩んでもらいたいと祈るものです。

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