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パッションとミッション

マタイ28:16-20

ネバー・エンディング・ストーリーというファンタジー映画 (原作はドイツ語の子供向けファンタジー小説) がありました。物語が本の中にとどまらず、今の自分にかかわってくる、と。。。

マタイの福音書も、そんな感じです。

エルサレムの郊外で十字架にかけられたイエス・キリストが、復活。このパッションの物語が、福音書の頂上。そこから一気にジャンプ台から踏み切る、という最後を迎えます。

アジアの東の端に生まれて、アジアの西の端のことなど遠い世界で全く知らなかったのが、ある人と出会って、そこから次第に、この物語が入ってきて、ついにはその中にすっかり入ってしまい、雪国に生まれて、熱帯で仕事をする、というところ。

その理由が、ここにあるのです。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

いっさいの権威

権威ぶっている人が、いっさいの権威を授けられた、と言っていたら、フーん、と言って通り過ぎてしまいそう。

でも、復活したイエス・キリストに会った弟子たちには、決してそんなことはできませんでした。

ここは、エルサレムから100キロ離れたガリラヤ地方。イエス・キリストが弟子を育てるために3年近く活動していたところです。たぶん、エルサレムから駆けつけた11人の他にも、大勢の弟子たちが集まったのでは、と思えます。

ガリラヤにいた弟子たちにしてみたら、遠くエルサレムから伝え聞いていた噂は、最悪のイエス処刑。敵前逃亡した11人とは別に、やはりお先真っ暗。

そこに、11人が来ます。

その集団に、ガリラヤにいた弟子たちが、次々と合流して行ったでしょう。

大きくなった弟子集団。半信半疑のまま指定されていた山に行った人もいたはず。実際に会って眼の前にいる姿を見ても、本当か、と思ったのも、当然だったでしょう。

その口から発せられた言葉。

「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」

たぶん、満面の笑みで弟子たちを迎え入れたイエス・キリストに、最終的には、嬉しさと安心とでいっぱいいっぱいの弟子たちだったろう、と想像します。

すべての国民を

キリストは、なぜイスラエルだったんだろう、と、アジアの東の端からつい思ってしまいます。

神が人間となって生まれ、死ぬ、となると、世界のどこか、になります。それを、自分のところから遠い話だと、どうしても「外国の。。。」と思いが支配してしまいます。

聖書を初めから読むと、イスラエルが神に選ばれたばっかりに、辛酸の極みを経験する歴史が続きます。それと歩調を合わせるように、イエス・キリストも、十字架にかけられるのです。

もし、キリストが日本に生まれていたら、その苦難を味わっていたのか、などと想像しちゃうと、なんとも複雑な気持ち。

結果オーライ、と言えばそうですが、多くの命がかかっているイエス・キリストの死と復活は、多くの人に、すべての国民、民族に伝えられなければ、という結論は、納得です。

ただ、世界のどの民族にも伝統的な宗教があって、やっぱり、イスラエルから来た、という知らせは、ヨソモノ、という感じが強いだろう、と思います。その中で、17世紀~20世紀のヨーロッパ列強が世界中に出て行った先々で「キリスト教」が広められ、「教会」が立てられ、現在に至って全人口の30パーセント以上、という統計。

それで、日本でも「キリスト教」はヨーロッパもの、というイメージが強いのでしょう。

本当は、アジアの西のはずれが起点なのです。ユーラシア大陸、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸のちょうど扇のかなめの地点です。

今では、アジア出身の「宣教師」も多数、世界中に出て行っています。

すべての国民を弟子に、という最初からのビジョンは、ほぼほぼ、達成されているのだろうと思います。時は近いのかも、と思わせられる現状。

わたしの弟子としなさい

外国に出ていって弟子を作る、というとき、自分の弟子、自分に忠実に従う弟子を囲い込みたくなってしまいます。

でも、そうじゃない。

イエス・キリストの弟子にしなさい。それが、イエス・キリストの命令。

自分が、完璧な弟子になったから、と言うんじゃない。いつまでも、学び続けながら、一緒に学ぼう、と人を誘う。

いろいろと凸凹がありながら、それでも、復活して今も生きているキリストに従う。全く信じられなかった弟子たちが、出会ってはじめて、驚きつつ、あらためてキリストに従う。それが、弟子なのです。

好きこそものの上手なれ。キリスト大好き、キリスト押し、で歩んでいくうちに、自分もキリストに似ていってくれれば、と。

どんな民族、国民にも適用される、シンプルな教え。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。いっさいの命令を行うように、教えなさい、と言われた、「いっさい」を一言でいうと、これに尽きるのです。

兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
ガラテヤ人への手紙5章13,14節

宗教を押し付けて一つにする、のではなく、キリストの犠牲にならって一つになりたいという思いを実現するように努めること。

一つになりたい、という思いそのものが、愛の基盤でした。

どれが一番いいのか、という議論じゃなくって、互いに愛し合うことが目標。

しかも、おまけじゃなく、「あなたの敵を愛せよ」、って。。。

これって、実行可能? 実行力は、次の約束からだと思います。

わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる

キリストがいるところ、それが「天国」。目には見えなくても、キリストは弟子たち共にいる。つまり、ここに目に見えない天国があるんだ、というのが、マタイの伝えたいことだったでしょう。

天国は、死んでから入るところ、ではなくなった!!

自分一人で、教えられたことを頑張ってできるようにする、のでもない!!

聖書の教えの全体が「互いに愛し合うこと」とでしたが、その実現の一番の後押しが、「自分は神に愛されている」という実感。それは、復活したイエス・キリストに会った弟子たちの実感でもあったのです。

イエス捕縛の時に、ちりぢりに逃げ去って行った弟子たちに、イエス・キリストのほうから近付いてきた。その一点だけでも、彼らには、愛されている、という気持ちがしっかり広まっただろうと思います。

最後の晩餐の時の言葉も、彼らの脳裏によみがえったでしょう。

「取って食べよ、これはわたしのからだである」「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」

十字架で体を裂かれ、血を流したことの意味が、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ことに結びついたのです。神に対する自分たちの罪が処分されて、神と共に生きていけることを悟ったのです。

命を懸けて愛され、命を懸けて罪が処分されたなら、イエス・キリストを命を懸けて愛することも、彼らには自然な事でした。

すべての国民が一つになる。たがいに愛するものとなる。それを夢見つつ、私たちもミッションを成し遂げたいものです。


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