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はじロー(26) 生かされて、生きる


 ローマ人への手紙5章

生かされて、生きる

一年間、生かされたな~、と思います。

自分で道筋を決めて、それに従って進んできた、というより、いろんな出来事や出会いで、流れが変わったり、新しいことが始まったり。

1990年にインドネシアで働くようになり、しばしば一時帰国していましたが、1年近くの一時帰国はありませんでした。大体長くて3か月。一度だけ6か月、というのがありましたが、今回は、11か月。その前1か月半自宅隔離で出かけていませんでしたから、1年以上、通常の働きから離れていたことになります。普通なら、もうそこで仕事はストップ、という感じでしょうが、今回は、周りの人たちがとっても頑張ってくれて、私の出る幕はない、といったところだったのです。

日本にいる間にも、いろいろな人と会って、話し合い、意見交換をしました。神学というのは、長年の積み重ねで出来上がっていくものだということをつくづく感じました。そうして、いろいろなグループが出来上がり、いろいろな神学が築かれていく。聖書の読み方の違いなのだろうと思うのですが、根幹となる神の事実とその理解のさまざまなあり方とは、違う次元のものだな~、とも感じた時間でした。

神さまに行かされている。では、それからどう生きていこうか。

違う時代に生かされ、違うところに生かされている者どうしが、言葉を交わし、やり取りしながら、‐‐‐昔の人とのやり取りは一方的になりがちですが、それを誰かとやり取りしながら‐‐‐ 進んでいくしかないんだな~、というところ。愛とは、その、だれかとわけ隔たりなくやり取りをする過程にじぶんを押し出す行為なのでしょう。

やっぱりカギは、つぎの一節に・・・新しい年も、恵み豊かにありますように。

ローマ人への手紙5章6‐8節

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

(新改訳2017)


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