見出し画像

キリしよん(12) キリストが栄光の座につく時

マタイ25:31-30

マタイの記しているキリストの終末預言、最後となりました。

弟子たちがエルサレム神殿の素晴らしさに驚嘆したことから始まったキリストの預言は、神殿の崩壊、キリストの再臨、世の終わりについて弟子が質問したことへの答えでした。

聖書の「預言」は、旧約聖書では、すでに語られた教えに神の民が従うか従わないかによって未来において祝福となるか呪いとなるかの宣言、という形でした。教え・勧告と祝福・のろいが、神の民に語られた全体が、神の預言です。

キリストの終末預言もその性格を持っていると考えられます。人々に向け、また特に弟子に向けて語られた教えを、そのとおりに行うか、拒否するかで、その人に対する神の対応は違ってきます。そのさばきが、この世の最後になされるのです。それが終末預言です。

今の世(時代)の終わりになされるさばきは、どのようなものでしょうか。

「羊」と「ヤギ」

動物に罪はないですが、羊が従順な者たちを象徴し、ヤギが身勝手に動き回る者。右に羊、祝福された正しい人たちを象徴し、左にヤギ、呪われる悪人が配置されます。

ちなみに、羊・ヤギどちらも旧約聖書では神へのささげもの、犠牲になる動物です。

右と左の違いは、インドネシアでは宗教に関係なく日常的に峻別されて、右手が清い手、左手が不浄の手です。これは単純に食事用の手とトイレ用の手を区別しているのです。食事は、基本、素手で食べますから。(最近はスプーンとフォークを使うことが増えています)

それで、左右に分けられていることが、清いもの、清くないものの区別が生理的にもそのままに実感されるのです。

祝福されて永遠の命に入る羊グループと、呪われて永遠の火に入れられるグループと、よほどの善行、よほどの悪行をした人たちか、と思いきや、どうもそういう基準ではありません。

いったい何が、こんなに大きな違いをもたらすのでしょうか。

「最も小さいものの一人」と「人の子」

福音書に記されるイエス・キリストの自分の呼び名は、全て「人の子」でした。日本語の会話で人の子と言えば、いかにも人間的な、弱さもある小さな存在で、愛や哀れみが優先している人を指すような言葉です。

聖書の、特にキリストに関連する「人の子」は、旧約聖書のダニエル預言に現れる権威ある存在です。

ダニエル書 7章
13-14節 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、 見よ、人の子のような者が、 天の雲に乗ってきて、 日の老いたる者のもとに来ると、 その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、 諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。 その主権は永遠の主権であって、 なくなることがなく、 その国は滅びることがない。

18節 しかしついには、いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く』。

22節 ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた。

27節 国と主権と全天下の国々の権威とは、 いと高き者の聖徒たる民に与えられる。 彼らの国は永遠の国であって、 諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う』。

「人の子」は小さいイメージのようですが、権威ある王であるとは、逆説の究極かもしれません。先のものがあとになる、とか、持つものが更に与えられ持たないものは持っているものまで取り上げられる、というよりもっと上を行く感じの逆説です。

この王がさばきをなすときに注目していることが、「わたしの兄弟である最も小さい者」に対する態度。

人類みな兄弟、と思ってこれを読めば、弱い人に対する善行を勧めている教え、と解されるかもしれません。福音書で記録されるイエス・キリストが言っていた「兄弟」は、もっと特別な人でした。

そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
マタイによる福音書 12:49-50

つまり、天の父のみこころを行う弟子たちのことです。

自らを「人の子」と呼ぶキリストの、その弟子はさらに世の中では何よりも弱い者とみなされる者たちだったように思います。空腹で、乾いていて、旅をし(放浪といったほうがよいか)、裸で、病気で、投獄されている者です。

こんな弟子たちが、歴史上に多くいます。日本でもキリシタン禁令の時代がありましたが、ローマ帝国時代もそうです。そして、大患難時代にこの世にいる弟子たちもそんな状況に置かれるかもしれないと予想されるのです。

禁制下、社会的には触れることすらタブーとされるような「弟子」に対してどんな小さなことであっても助けの手を伸ばす人がいるなら、その人には、たとえ水一杯でも神の報いは永遠の命への招きだ、と言われているかのようです。

小さな親切の勧めレベルの教えではない、自分の命も賭してなされる善行のようです。「あの弟子たちに関わる者は厳罰」であることを覚悟の上での支援、援助。「わたしの名のゆえにすべての民に憎まれる」(24:9)状況下での善行は、命がけのことなのでしょう。

なぜそんな善行をするのでしょうか。動機は?


「わたしにしたのです」

肉親だから、という理由でしょうか。普通だったら、それはあり得ます。

命の恩人だから、という理由も考えられます。「天の父のみこころを行う弟子たち」とはイエスが預言されていたキリストだという福音を伝える者たちです。ちょうど1世紀の弟子たちのように、放浪しながらでも福音を伝え続けたことで、永遠の命を得た人々がその恩に報いて手助けをするのかもしれません。永遠の命の恩人への恩返しです。

マタイが記す弟子派遣の教えの中に、ちょうど状況が患難時代にも相当するような描写があります。

兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。
マタイによる福音書10章21‐23節

また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
マタイによる福音書10章28-33節

自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。
マタイによる福音書10章39-42節

イエス・キリストの12使徒のほとんどは、迫害の中で殉教死を遂げて行きました。世の終わりの「患難時代」に現れるとされる「荒らす憎むべき者」のために人々が逃げなければならない状況は、歴史上の迫害の何よりもひどいのかもしれません。

そのような中でも「わたしの弟子」を受け入れ、水一杯でも与える者は、決してその報いから漏れることはない、とされるのです。なぜなら、「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」からです。

つまり、「弟子」に助けの手を伸べることで自分の命の危険が迫っていても、その助けをあえて行う者とは、イエス・キリストを受け入れる心がある人なのでしょう。

永遠の刑罰か、永遠の命か、そのどちらに入れられるかを決める権威がある方を、私たちは「神」と呼ぶのでしょう。譬で語られた「主人」(25:11、26) のイメージが身勝手な独裁者であると決めつける前に、自分の抱くイメージのほうが身勝手な想像の産物であったかもしれない、と、神の預言をよく読みなおすことが大切だと強く思わされた教えでした。

「キリストの受難と復活」に続く

終末預言に引き続いて、マタイが記すのはキリストの死と復活です。そこに「キリスト預言」の成就を間近に認めた弟子たちが、まず神観を変え、キリスト観を変えて、神が共にある生き方をしていくことになります。マタイの福音書の最後の言葉、復活したイエス・キリストの弟子たちへの約束の通りです。

「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
マタイによる福音書28章19-20節

マタイによる福音書25章31~46節

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。

そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?