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まちの保育園に通った話


我が家では子供の創造性を意識して子育てをしてきた。その中でも娘が2歳から入園した「まちの保育園」の存在は大きい。ここ10年で新しい園が次々にオープンして今では都内5園の規模となったが、娘が入園したのはまさに創立の時。当時私は就職など計画的に動いて、家から徒歩2分の区立保育園への入園許可をやっと取得することができていた。ところが、何やら新しい保育園ができるらしいという情報を夫が持ち出してきて、4月の入園も間近の3月に計画が覆り、家から少し離れた隣の隣の学区にある「まちの保育園」に通うことになったのだ。インターネットに住んでいるような夫は、いつもふいっと新しい情報を釣ってくる。そして東京芸術中学の時と同じく、これまでの実績がない良いかどうかわからない新しいものについて検討し、勘を頼りに飛び込むのである。

「まちの保育園」はイタリアのレッジョ・エミリア教育からインスピレーションを受けており、子どもは教えられるべき弱々しい存在ではなく、豊かで可能性のある一市民として尊重される。日々の活動にゴールが設定されておらず、子どもたち自らの探求によって学びが展開されている。

レッジョの幼児教育について書かれた一冊

私は保育園生活をとても興味深く見ていた。娘はある日、氷に絵の具を塗りたいと思ったそうだ。朝の会でやりたいことを説明し、保育者に氷をもらい、トレイの上で氷に絵の具で色をつけた。時間が経つにつれて溶ける氷と混ざる色。子供の探求心から生まれたこの活動は、物理、化学、数学、芸術が混ざっている。教育システムに組み込まれる前の学びは理科や算数、図工などに分かれておらず、多岐にわたる事柄を自然に学んでいるのだ。娘は賛同した2名とともに朝の会からランチの直前まで活動をしている。子供主体で活動が進められ、興味を持った子が自分の意志で参加する。当時の保育園生活はこのような活動もありつつ、おままごとをしたり絵本を読んだりお散歩に行ったり、そんな具合であった。
その場に居合わせていない私がこの活動に共感できるのは、保育者が観察したことを記録し共有してくれていたからである。レッジョ教育ではこの記録をドキュメンテーションと呼んでいる。この時保育者は、まず最初に具体的にどんな道具を使って氷に絵の具を塗るかを子供達と打ち合わせしており、その後はその活動ができるように場所や材料を提供するなどサポートをしている。指導要領に基づく教育といったものとは異なり、保育者よって学びが終わらせられることはなく子供達のなかでは思いのままに継続されていく。その頃の連絡帳を改めて読み返してみると、後日家庭ではボウルで大きな`氷を作って溶ける様子を観察したり、また別の日には空気が入っていない氷を作るなどしており、数日間に渡って氷を題材に学びを深めていた。私は打ち合わせメモと写真付きドキュメンテーション、そして保育者と家庭のやり取りが記録されている連絡帳を娘の成長の軌跡として今も大切に保管している。

ドキュメンテーションはまちの人々にも開かれている。我が家は園の近所に引っ越したこともあり、卒園以降現在に至るまでの7年間、前を通りかかったり散歩途中の園児や通勤される先生に出会ったりなど、園の存在を感じながら生活してきた。つい先日も娘と散歩していたら、子供たちが描いた絵のポスターが園に貼りだされていてしばらく二人で見入っていた。懐かしくなり、併設されている店で保育園帰りによく食べていたパンを買い、エントランスに置かれているドキュメンテーションファイルを閲覧した。そこには相変わらず子供たちの学びが詰まっていてキラキラしていた。誰でもアクセスできる飲食店が併設されている保育園はまちの人々とゆるく繋がっており、飲食店を利用するとそこで学ぶ子供たちの存在を感じられる。
娘の好きなシンプルな丸いパンは当時から変わらない。夕焼け空の下、帰路につく自転車の後部座席で満ち足りた気分でかじった思い出の味である。娘はこのパンが好きでたまに買いに行くのだが、そんな風に今でも何となく身近にある保育園なのである。
ところで、ポスターを見て、娘はもう園児たちのように本能的に描くことはできなくなってしまったと言っていた。だが、代わりにその絵のどこが素晴らしいかなどを1枚1枚詳細にコメントできる人になっていたのは面白かった。

保育園生活で印象深いことは幾つもある。園には様々な廃材や自然物などの素材があり、娘はいつもそれを使っては何かしら作っていた。あまりにもいつも作っていたので我が家にも素材引き出しを設け、ぼたんやリボン、コルクなどを収納していた。興味深かったことは、自分で作ったものを頻繁に使っていたことである。人形のようなもの、キーホルダーなるもの、アクセサリーのようなもの、入れ物のようなもの、何かよくわからない帯のようなもの、それらは作品であるだけではなく使うためのものであり、既製品はそっちのけが常であった。今思い返すと、園にはカプラやレゴはあったけど、既製品のおもちゃのようなものがあまりなかったからかもしれない。娘は卒園以降成長にあわせて道具などが変化してきたものの、自分でプログラムしたゲームで遊び、自分で作った音楽を聴いて楽しそうである。イラストを描く練習をしているのも、自分で推しのイラストが描けるようになったら外部から入手する必要もなく自己完結できるからだそうな。基本自炊多めなのである。幼児教育は成果を図るのが非常に難しそうであるが、保育園時代から続くこの現象が何を意味するかは引き続き観察していこうと思う。

我が家の素材収納引き出し


子どもたちの探究心や創造力が尊重されている環境で4年間過ごし、13歳になった娘に保育園時代のことを尋ねると、「いつも何か作っていた。自由だった」という答えが返ってくる。消防車だとか象の絵を皆で描きましょうみたいなことはなく、好きなものを創り、好きな絵を描き、好きな遊びをしていたように思う。枯れることなく湧き出る創造力だけで、鼻歌を歌いながら1日ずっと創っていられる、娘の黄金時代であった。

今年の春に「まちの保育園」のオンラインイベントに参加する機会があり、豊かな環境に再び心動かされた。先頭に立つ卒園生はティーンエイジャー、これからが楽しみである。幼児の時だけでなく、成長に合わせたあの時の環境があればどんなに素敵だろうかと思った。

イタリア行き当たりばったり鉄道旅行の際、通りかかったレッジョ・エミリア駅で下車してみた。
街は日曜日で静まり返っていたが、ここで生まれた考え方によって育まれたことを実感する。ルーツに触れることは大切だ。

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