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自分のやったことは何も無駄にならない。

私は昔、よく写真を撮っていた。

日が昇る前の30分、日が沈んでからの30分。

あの時間が止まって欲しいと、そして行かないでと

追いかけていた不思議な間。

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あの頃は鬱々として

その気持ちのやり場のなさや

どうしようもない言葉にならないものを

全部写真という行為に任せていた時だった。

美しさを切り取るツール。

何を切り取るかは人によって違うけど

私の写真の使い方がそうだった。

私は美しいものが見たかったから。


じゃあ、その美しさの定義ってなんだろう?

写真には色んな演出ができる。

ただそこの見えるものを切り取って

悲しそうな、寂しそうな、儚いような

そうゆうものを〝美しさ〟として意味や理由を付けたのかもしれない。

生きづらい者が生きる理由欲しさにそれをしていたような気がする。

何か特別な理由がなければ立っていられない程

何もない自分では生きられなかった。


だからあの頃の生きる術は

執着とか怯えているとか自信がないとか

生きることから逃げてしまう程後ろ向きで苦しんでることが

まんま生きているエネルギーだった。

色んなことが突発的で、危うかったが

それで生きていた。


美しく見えるものを追いかけ、行為に取り憑かれ、でもその風景に癒され

撮影がまるで麻薬みたいだと思うのは

今振り返ればの話し。


それで美しさの定義は何だっけ?

純粋に自分の心が動くもの。

目で見て心が綺麗だなと思うもの。

それはシンプルだけど

でもそれを支えるのは真逆にあるものだった。


美しさを追いかけられたのは

美しさとは永遠に平行線のままだと分かっていながら

憧れ続けながらする葛藤や執着や劣等感や…そうゆう苦しみの方だった。

綺麗な風景を見ながら、心はボロボロで全く綺麗ではなかった。

それは醜さだったけど認めたくなかった。


そして、内側にあるそのドロドロ抜け出せないような苦しみを癒す為に

美しいものを見続けていたかった。

自分には一生それにはなれない悲しみがありながら。

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不幸せでいる程、そのヘドロのような気持ちを吐き出す為に

何かを残したくなった。

もしかしたら苦しんでいる方がクリエイティブなのかもしれない。

ぽっかりあいた穴に何かを満たそうとして行動し続けていた。

不健全で、鬱で、不幸せな私が過去撮った写真を見ながら

美しさを支えていたあの頃の私の美しくない想いが

これだけの記録を残した。

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写真を撮らなくなった今でも

私の中にある不健全で、鬱で、不幸せで

やり場のない思いは

生きている限り出てくる。

いくら時間が過ぎようが、経験が増えようが、場所を変えようが、周りにいる人が変わろうが…

そしてまた自分のそうゆう幸せではいられないような気分になる事を

当たり前のように恐れてる。

でもそれから逃れるための術が今はない。

癒される為にわざわざ写真は使わなくなったのは

外側では癒される何かは一時のものでしかない諦めからかもしれない。


でもそんな時

あの頃に撮った膨大な写真を見ていたら

自分の外見や内面に美しい部分が無くても手に入らなくても

それでいい気がした。

あの時の私は今の私と同じように

死にたいと思いながら

それでもどうにか生きる道を探していた。

美しいと感じるものを沢山のジレンマの中で集めることで。


美しさという輝きを包み込むように支えている見えないのものがあること。

自信がなくて、怯えていて、戦っていて、それとも逃げていて、嫌いで、比べている

そうゆう満たされない思いの中で生きていたこと。

それらが悪いのではなく、敵だったのではなく

それらはいつも支えてくれようとしている見方であったこと。

暗闇に光る星と同じように。


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〝パノラマ東京より〟


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