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認知症の姑の介護体験で感じてきたこと⑤

私の夫は一人っ子。
ずっと週末だけ帰る単身赴任中。

舅が亡くなって、姑の世話をするのは私しかいない。それは、結婚した時から、私も姑自身も覚悟してきた。

姑の介護について、夫は「すまないが、君に任せる。どうしょうもなくなったら、施設に入ってもらうことも考えるから。」と言った。

その言葉は、私がやりやすいようにしてくれたらいいという夫の気遣いだとわかっていたので、私には有り難かった。

親戚も近くにはおらず、外野からとやかく言ってくる人もいなくて、そういう気遣いをしなくて済んだのは、有り難がったが、私一人で背負う重さは常に感じていた。

「軽い認知症だと思われます」と言われた姑と、同居を始めてまだ日も浅い頃、まだ昼間半日ぐらいの留守番は任せられた。

姑は、知らない土地に越してきて、どこに何があるかもわからないので、私と一緒でなければ外出はしなかった。

そんな頃のお正月、昼前に姑のお昼ご飯だけ用意して、私と夫と大学受験を控えた息子は「晩御飯までには帰ってくるからね」と告げて、私の実家に年始の挨拶に出かけた。その足で夫は単身赴任先に帰って行った。

「お母さん、ただいま。一人で待たせてごめんね」と言いながら、姑の部屋に入って、驚きと共に血の気が引いた…!

姑の服も、部屋のカーペットも椅子も、真っ赤な血に染まっていた。

「どうしたの!何をしたの!」と思わず私の声は大きくなっていた。

姑が何枚ものハンカチやタオルやティッシュで、手首を押さえているのが見えた。

それを取ってみると、左手首にはカミソリで何箇所も切った跡が…。

私の心には、その時怒りしかなくて、声を荒げて「どうしてこんなことするの!お母さんは、〇〇さん(夫の名前)の親でしょ!こんなことしたら、〇〇さんがどんなに悲しむかわかってるの!」と言いながら、急いで、ガーゼと包帯で手首を巻いて手当てをし、休日でも救急で見てくれる病院を調べて電話した。

心臓の鼓動はとても早くて、バクバクが止まらない。胃の中がカーッと熱くなってくる。こんな感覚は初めてだった。

「落ち着け、私。落ち着け、私。」と自分に言い聞かせながら、病院まで車を走らせた。

病院で診察を待つ間、「あぁ、どういう状況でこうなったかを説明するんだよね…。嫌だなぁ。恥ずかしいわ。」とずっと気持ちが沈んでいた。

きっとその時の姑の気持ちに寄り添えば、「一人にして寂しかったよね。ごめんね。」との一言が出たのかもしれないが、その時の私にはそんな余裕はなかった。

処置をしてもらった先生が、私一人を呼んで仰った。「普通、自殺を図ろうとしてリストカットする人は、ためらい傷があるもなのですが、それもない。そこまで深くは切れていない。認知症があるとのことですし、これは、また同じことをされますよ。気をつけてください。」と。

私の心はまた一層ドーンと重たくなった。

夫に電話をしたら、戻ってきて、姑に「悪かったな。寂しかったんだね。」と優しく声をかけていた。

「いやいや、私がどんなに驚いたか、どんなに大変な思いをしたか、あなた、わかってる?」と言いたいところだったが、言っても仕方のないことで夫を苦しめるのは、可哀想だと思い、その言葉は心にしまった。

夫は仕事があるので、またそのまま単身赴任先に戻って行った。

私はこのことがあって、それまで姑に対し気を遣って使っていた敬語をやめた。

「もう遠慮はしない。この人の命は私が預かっているのだから、遠慮なく物を言おう。それでなければ続かないし、やっていけない。」と腹を括った。

そのすぐ後には、息子の大学入試が控えていたが、家の中は受験どころではなくなっていた。

そんな落ち着かない空気の中で迎えた、息子のセンター試験。

結果は、第一希望に手が届くのかどうなのか判断に迷う、何とも言えない微妙なものだった…

浪人中だった息子は、安全策をとって、第二希望の大学へ進路を変更した。

私の心はとても複雑だった。

「おばあちゃん、孫の受験の邪魔しないでよ!」と、そんな心がむくむく湧いてきてしまった。

そんな気持ちになる自分も嫌だった。

介護は決して綺麗事でできるものではない。

介護する方も、される方も、葛藤の連続だ。

でも、それを乗り越えることができて、最後には愛おしさと優しさで、互いに通じ合えた経験があるからこそ、こうやって、今落ち着いて振り返ることができるんだなと思う。

今も私にとっては忘れられない宝物のような経験になっている。

私と姑がどうやってそこにたどりつくことができたかは、また次の機会に…




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