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勉強の時間 人類史まとめ9

『世界史の構造』柄谷行人3


交換様式ABCが混在した日本の中世


鎌倉時代は武士が農民をリードして大規模な開墾を行った時代でしたが、商工業が盛んになって物流ネットワークが発達した時代でもありました。

鎌倉末期になると、物流や商工業を支配する新しいタイプの武装勢力が出てきて、王政復古をたくらむ後醍醐天皇を支持して幕府と戦うようになり、鎌倉幕府は倒れてしまいます。

天皇を頂点とする古いタイプの中央集権国家の再建をめざした後醍醐の政権は、土地と農業を基盤とする武士と対立し、彼を支持した商工業・物流など経済を基盤とする新しい勢力もうまく活用できず、あっというまに崩壊してしまいます。そして武士の政権である室町幕府が成立して一件落着となりました。

しかし、室町幕府は後醍醐と対立したまま別の天皇を立てたため、南北朝の対立という構図が生まれ、非常に不安定でした。経済面でも、商工業という新しいファクターをうまく制御できず、武士による土地の支配という古いシステムを維持しようとしたため、南北朝の対立がおさまったあとも、不安定な状態が続きました。

つまり有名無実化した交換様式Bの朝廷の下で、幕府の交換様式Aも弱体化し、商工業の交換様式Cが発展する中、安定した統治がなされないままの状態だったわけです。

やがて武士どうしの無秩序な闘争が始まって、戦国時代と呼ばれる期間が百年以上続き、そのあいだ商工業や物流はさらに発達しましたが、結局また江戸幕府という武士の政権が成立します。


江戸時代の交換様式ABC


江戸幕府は一応大名という武士が土地を割り当てられて支配するシステムですから、鎌倉時代の封建制みたいにも見えますが、大名が経営する藩は農民を管理するだけでなく、農産物の加工販売など経済振興策もやって、その地域の経済を成長させようとする一種の企業体でもありました。

武士は戦争がなくなって藩のスタッフとして勤務する、地方自治体の役人になり、企業体の運営を行う管理職的なこともやるようになりました。その意味では王国の庇護と管理の下で商工業を発達させた近世ヨーロッパの絶対王政時代に似ているとも言えます。

フランスに代表されるヨーロッパの近世では、それが中央集権的な仕組みで行われたのに対して、日本では地方分権的な仕組みで行われたというところがちがうわけですが、同じヨーロッパでもドイツのように統一が遅れた地域では地方分権型の統治や経済振興が行われたし、イギリスのように絶対王政をいちはやく卒業して、貴族や資本家、官僚が協力して運営する近代国家に転換していった国もあるので、いちがいにどの国が典型的とは言えないのかもしれません。

江戸時代でも、徳川政権のトップは形式的ではあっても朝廷に任命された征夷大将軍ですから、幕府は朝廷を頂点とする交換様式Bの下に位置づけられています。将軍は朝廷にとって同列の武士階級における第一人者でしかないという位置づけです。

この形式的な交換様式Bの下で、交換様式Aの武家社会が交換様式Cの商工業を支配しながら、経済発展をめざしていくというのが江戸幕府の構図です。

この仕組みが安定して運営されたことで、経済はおおいに発展しました。

しかし、この日本型交換様式ABCには根本的な矛盾がありました。戦国時代末期に爆発的な発展を見せた海外交易が、徹底して制限されていたことです。経済は違う地域の価値が国境を超えて交換されることで富を生み出す仕組みですから、ひとつの国の中だけで成長しても限界があります。

江戸幕府の創設者である徳川家康は、政権の前任者である織田信長や豊臣秀吉同様、経済の重要性を認識していたし、経済成長には海外交易が大きな役割を果たすことも理解していました。しかし同時に、経済成長は商工業事業者を爆発的に豊かにすること、それが武士による戦乱とは別の新たな闘争をもたらすことも予感していたようです。

家康は海を越えてヨーロッパからやってくる商人や軍人、宣教師たちと交流がありましたから、16世紀の大航海時代からヨーロッパでどんな闘争が起きたか、ヨーロッパの国家と商人階級がどんな思惑でアメリカやアフリカ、アジアの新天地を開拓し、先住民を征服したり略奪したり、支配したりしつつあるかを把握していたでしょう。

家康は旧政権の豊臣との決戦にあたって、オランダ人やイギリス人をブレーンとして雇い、最新技術・兵器を取り入れて大坂城を攻め、豊臣家を倒したと言われています。そのとき豊臣側をサポートしていたのは、オランダ・イギリスより早く大航海時代をスタートさせ、新大陸に広大な領土を獲得していたポルトガルでした。

ヨーロッパの各国は国家と軍隊、商人、宣教師が協力しながら、アメリカ・アフリカ・アジアの各地に入り込んでいました。地元の勢力が対立していれば、そのどちらかを支援して闘争に勝ち、勝った方に対して影響力を強めていく。圧倒的な技術や知識、物資の豊かさにものを言わせてすきあらば支配してしまいます。

家康はこのとき、ヨーロッパ人とあまり深くつきあうことの危険を感じたのかもしれません。



「鎖国」の効果と限界


江戸幕府が交易相手をだんだん制限していき、最終的に清・朝鮮・オランダの3国に絞り、国際貿易港を長崎に限定する、いわゆる「鎖国」政策を本格的に実施するのは、三代将軍家光の時代です。

ヨーロッパの中からオランダだけが交易相手に選ばれたのは、オランダが商人主導の国で、イギリスやポルトガル、スペインのように政治や軍事や宗教などをセットにして持ち込もうとしなかったからだと言われています。

こうして海外勢力との関係を可能な限り制限することで、日本は戦国時代の混乱を脱し、平和で安定した経済発展を実現することができました。

しかし、海外交易を極端に限定した江戸時代の経済は、江戸中期以降、国内で可能な成長の限界に達します。

ちょっと贅沢しようとすると、幕府はやっきになって禁止しました。

国内だけで安定した社会を維持するために、幕府は儒教や仏教、武士道といった倫理を奨励し、欲望の制御を強制したのですが、これによって国内にフラストレーションがたまっていきます。

一方、18世紀末からロシアやアメリカ、オランダ以外のヨーロッパの船が相次いで日本近海に現れ、隙を突いて上陸してみたり、江戸幕府に開港・外交を要求したりするようになりました。

それまで日本には「日本」という国家や国民という概念がなく、「国」と言えば相模の国とか武蔵の国とか、地方の地域を意味する古代からの国があっただけでした。

『世界史の構造』によると、国家というのはそれ自体が単独で存在するものではなく、近隣の国とか外国と接することによって意識され、機能するようになるものだということです。江戸時代の日本人も、外国の船がやってきてはじめて日本という国を意識するようになったのかもしれません。

もともと大和朝廷が成立した古代から日本という国はあったのだから、今さら意識するようになるというのはおかしいという気もしますが、日本は島国ですから、外国と関わるときは日本という国を意識するけれども、それ以外ではあまり意識しないできたのです。

それまで幕府はヨーロッパとの交易を長崎経由のオランダだけに限定して、もたらされる情報は幕府の役人と学者が独占していましたが、日本のあちこちに外国の船が現れて、外交を要求するようになると、国内がざわつきはじめます。

役人や学者たちは長崎経由で入ってくる情報から、17世紀から19世紀にかけてヨーロッパで大きな技術革新が起き、経済・社会が大きく変わり始めていることを把握していたようです。

平賀源内のように蘭学を学んで技術開発して、それを事業化しようとした学者・発明家も現れていました。蘭学つまりオランダの文献からヨーロッパの科学技術を研究する学問は学者のあいだでブームになりました。

一方で、外国の勢力は島国の日本にとって侵略してくるかもしれない脅威でもありますから、当然警戒する人たちも現れます。

日本の伝統文化を研究する国学も江戸時代後期に盛んになります。もともと江戸幕府はスタートから外国の勢力を警戒して、影響力をできるだけ排除しようという傾向があったようですが、同時に征夷大将軍の権威を保証する天皇、朝廷を崇拝する意識を強く持っている政権でした。

徳川御三家のひとつである水戸藩の徳川光圀が編纂させた『大日本史』も、日本という国と朝廷の成り立ちを再確認することで、幕府の権威を保証しようという意図から生まれたものです。

つまり江戸時代は戦国時代にヨーロッパ文明に触れたショックを、鎖国で回避した時代であり、ヨーロッパを意識しないようにしながら、その動向に興味を持たざるを得なかった時代であり、外国を意識することで日本という国を意識するようになっていった時代だったと言えます。


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