『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)読書会の記録

はじめに

 先日、限界研の読書会(例会)で拙著『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)が課題として取り上げられた。限界研のSF評論集『ポストヒューマニティーズ』に私も参加し、その経験が『ポストヒューマン宣言』の下地になっている。限界研で読書会をしてくれたことは、感慨深いものがある。
 この記事では、読書会ででた意見・質問と、それに対しての私のコメントを紹介したい。以下の番号は(海老原の要約による)出た意見・質問。その後に、海老原からのコメントを続けた(読書会で言ったものと、書き加えたものがある)。
 参加した皆さんは、実に丁寧に本書を読み、率直な意見を言ってくださった。筆者としてとても嬉しく、深く感謝しています。

(1)シリーズものを追っているので、シリーズ内での変遷がわかる。他方、別の作品どうしを勝手にシリーズとして読み込んでいて、それはそれで面白い。

『エイリアン』と『ターミネーター』はなんだかんだ好きなSF映画ベスト3に入るので、なんとしても論じたかった。シリーズを同じ監督が撮り続けるのはあるようでいてあまりないのでは。回ごとの違い、時代の変遷は見える。『エイリアン』なら70年代、80年代、90年代とゆるく対応している。『1』から『4』まではそれぞれ79年、86年、92年、97年。

他方、『マトリックス』はそれ以前のSF作品を見直すことで、マトリックス外に広げられると思っている。マトリックス論の前半は『マトリックス』論の下準備になった。

(2)『ターミネーター』のシュワルツェネッガーを、役者とキャラクターと重ねてサイボーグとして読むのは無理矢理だが面白い。「まなざし」でサイボーグに見えてしまうのは「サイボーグお姉さん」を思い出す。

やっていて自分でもけっこうトリッキーだなと思った。が、こういうトリッキーなことをやるのも楽しかった。英語でmachinesと言われているが、cyborgとも言われているターミネーターたち。サイボーグの原義からみると明らかにサイボーグではないが、サイボーグと呼びたくなってしまうのはなぜだろう? と考えた時に、キャラクター=役者のシュワルツェネッガーに辿り着いた。

私は以前、『ユリイカ』で「振り返ればトムがいる」と題したトム・クルーズSF映画論を書いたことがあるが、トム・クルーズもキャラクター=役者だろう。

(3)フェミニストSFを丁寧に書いてあるのはよかった。

一時期、ジェンダーSF研究会の読書会に参加して、ジェンダー(フェミニスト)SFの勉強をしていた。これがけっこう影響していると思う。男である私がフェミニストSFについて論じることは、賛否があるかもしれない。フェミニズムという、そもそもはマイノリティとしての女性の問題を考え・解決するために先達のフェミニストたちが豊かにしてきた語彙を、私が使っていいのかという批判はあるかもしれない。

私が大学(院)で批評理論を学んだときには、すでにジェンダー理論として精緻化され、性別に限定されず、社会制度のみならず性別もセックス/ジェンダー/セクシュアリティで問い直すことが、当たり前のようになっていた。私にとってフェミニスとSFはジェンダーSFとしてあった。(なぜフェミニストSFという呼称を用いたかは後述。)

また、あくまで評論(作品論)であることも重要かもしれない。ジェンダーをめぐる思考実験的なフィクションを言葉で掘り下げることは、必ずしも社会運動・改革に直接に結びつくわけではないが、私たちの考え方を豊かにするのは間違いがない。

(4)流行りのポストヒューマン論のように見えて「自分とは何か」を考え、ポストヒューマンへの逡巡も見られる。純文学的なSF論であり、最近のSF化する純文学ともつながる。

フェミニストSFで論じた松田青子や、今回は触れられなかったが村田沙耶香など、SFプロパーというより文学に分類されることの多い作家・作品にも、注目すべき作品が多い。

この本の発端は限界研のSF評論集『ポストヒューマニティーズ』であることは先述した通りだが、『ポストヒューマニティーズ』の前書きで、2種類のポストヒューマン像が描写されている。多幸・アッパー的なポストヒューマンと、輪廻・ダウナー的ポストヒューマンで、後者を「日本的ポストヒューマン」としている。はたして日本的ポストヒューマンなるものが存在するのかどうかは、拙著でも検討しているが、ポストヒューマンにもアッパー系/ダウナー系があるのは確かだろう。

最近、ポストヒューマンが話題になる時、どちらかといえばアッパー系が多いようにも思うが(イーロン・マスクなど)、ヒューマンの悩みはとても深いものなのだ。

(5)作品論だが、特に8章のティプトリー、ル・グィンは作家論でもあり、作家と作品が切り離せない状況、テクストがテクストとして完結し得ない状況が反映されている。

私もテクストと作家をうまく切り離せず、書きながら混乱したのも正直なところ。ジェンダーの構築性をこれ以上ないほど示したのが性別を偽った覆面作家ティプトリーだが、彼女(アリス)が彼(ジェイムズ)として創作することで、彼女自身にも変化があった。テキストの外部に参照点として位置する作家もテクストと関係しあっているといえば当たり前の話なのだが、この当たり前の話は考えれば考えるほどうまく言語化できず、悩ましい。今回も、うまく表現できていない気がする。

(6)「ポストヒューマンとは何か?」に答えられているのか。『エイリアン』ではじめ『フランケンシュタイン』で終える構成はわかりにくいかもしれない。はじめと終わりではなく真ん中に配置することもできたのでは。

書いている時は「この並びしかない!」と思っていたが、1冊の本として完成し読み直すと、「異色の」並びにも見える。第1章のエイリアン論は自分の中からするすると出てきたが、「ポストヒューマンについての話かと思ったらエイリアンだった」と面食らう読者がいてもおかしくはない。(エクスキューズは挟んでいるが。)

流行りのポストヒューマンに乗りつつ、流行りのものだけではなく、もっと古く、もっと伝統的に、SFが長らく問題としてきたもの(精神と身体の弁証法)をテーマにしたかった。

(7)ポストヒューマンを冒頭で定義しているが、射程が限定されてしまい、もったいなかった。科学的な話だけではなくジェンダーなど人文的な要素も多い。(ブライドッティの『ポストヒューマン』)

ポストヒューマンを科学的なものとするか、思弁的なものとするか。本書では科学的なものとしつつ、思弁的に可能性を模索しようとした(のだと思う)。

(8)テクノロジー論があってもよかった。SFのガジェットは実際どこまで実装しうるのか。冒頭に「SF化する現実」の例としてあがっているAmazonのリコメンデーションは、言うほど優れた機能ではない。

「現実はSF化しつつある!」とはSF評論家たる私のスローガンだが、冷静に振り返ると、期待(想像力)が先行しているところはある。ギブスンの「未来はここにある。それはまだ広く行きわたっていないだけだ」の方が適切だろう。「到来した未来」の溜まり方が指数関数的なのがデジタル/ネット時代の特徴か。ある場面ではSF以上であり、ある場面では昔となんら変わらない。テクノロジーの進歩の速度に比べて、人間の生得的(生物的)な知能はほとんど変化していないので、そのギャップ・ちぐはぐさは、現実問題としてある。

(9)どこまでが過去の批評で、どこまでが自分のオリジナルか、もう少しわかりやすく整理して提示するべき。気になったのは次の3点。マルクス主義とSF批評の関係(p.47)、ポストヒューマンのパラドックス(p.80)、外挿法と思弁法(p.229)。

これはまったく私の問題で、本を1冊書いてみることで見えてきたものでもあった。ふだん読んでいる小説や理論書が自分の血肉になっているのだが、いざ論を書こうと思ったときに、「あれはどこだっけ」現象に巻き込まれる。きちんと参考文献とノートと書棚を整理しておけば良かったのだが、読んだら読みっぱなし、書いたら書きっぱなしだった。理論的にはこの本を参考にしているはずなのだが、その本がない、本があっても肝心の引用箇所が発見できない(違う本の可能性あり)なんてことも。ないないと思って図書館で急いで取り寄せた本が、家の本棚の目につくところに刺さっていたのを見つけて脱力した。

という手痛い経験をしたので、これからは参考文献と読書ノートの整理は(前よりも)やっている。

(10)『シン・ウルトラマン』はポストヒューマン的ではないか。

残念ながら未見。見終わったら何か書こうと思う。

(11) ファンタジー論に接続するともっと面白くなる。ル・グィンは『闇の左手』だけではなく、その後、様々な物語を書いているし、ル・グィン自身も批判的に自作を検証している。科学で説明できるところを超えたもの(ファンタジー)をどう考えていけるか。

結局、ル・グィンは『闇の左手』のみの言及となってしまった。出版後、『所有せざる人々』を読み直す機会があったが、これもこれで名作。ル・グィンは、自分の中ではどうもうまくつかみきれていないので、今後の課題だと思っている。(どこか優等生的な雰囲気に馴染めないのかもしれない。「優等生」といってしまっていいのかも含めて。)

(12)ジェンダーSFでなくフェミニストSFという名称を使った意図はなにか。

ジェンダーSFのほうが現在ではポピュラーな呼び方だと思う。フェミニズムからのジェンダー理論という発展の歴史があり、かつ本書で論じたSFは「女性だけのユートピア」に関係したもので、こういった分離主義ユートピアはわりと初期のフェミニズムの文脈で論じられたトピックなので、あえてフェミニストSFという呼称で統一した。このへんは小谷真理『性差事変』や、北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』に詳しい(本書を書いた後に、この2冊は読んだ。)

(13)最終章で『屍者の帝国』が論じられていないが、なぜか。

これも完全に私の力不足。論じるき満々で『屍者の帝国』を読み直していたのだが、手に余ることに気付いた。すでに分量もそれなりにあり、どうフランケンシュタイン論に組み入れるか悩んでしまった。いっそ全部カットということで、触れていない。構想中の次回作になんとかして組み入れたい。

そもそもどういう本か? と疑問に思われた方はこちらの記事をどうぞ。

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