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生活を掘り下げたら、自分の普通じゃない部分がどんどん明らかになってきた

芯のある人間?それともただのエゴ?

営業現場にいた時、同じ職場の男の後輩を行きつけの喫茶店に誘った。オシャレでいい雰囲気だったので、一緒に楽しんでもらいつつ先輩風を吹かしてやろうという魂胆である。

ところが、連れてきた後輩がなんだが気まずそうにモジモジしている。誰か知り合いでもいるのかと尋ねてみると、奪いはおそるおそる口を開いた。

「先輩・・・この店、男性客俺らしかいませんよ」

え?と思って周りを見渡すと、確かに女性しかいない。通っている時はお店の雰囲気とか料理に舌鼓を打っていて、周りのお客さんの様子なんて全く気にもとめなかった。

先輩風を吹かすどころか、私が「自分の世界に浸りきっている視野狭窄パーソン」であることを後輩に知らしめてしまった。人間は自分で「キマった!」と思った時が一番滑稽だったりするのだ。

「お前はイベントがあって、それが自分のやりたいことだったら迷わず行くタイプだろ。俺らは誰と一緒に行くかを重視するタイプだ」

ある日職場の先輩に指摘されていろいろと合点がいった。確かに、イベントへの参加・不参加の態度をいつまでもハッキリさせず、参加メンバーの顔ぶれをあの手この手で探ろうとする人間の考えが理解できなかった。

そういう人は「催しがなんであろうと、参加メンバーがよければ楽しめる」タイプなのだ。以前はこういう人たちを「幸せの基準を他人に委ねている」とネガティヴに捉えていた私だが、今では「相手が嬉しいなら自分も嬉しい」といった風に幸せを広く定義できる人間だと前向きに見れるようになった。

うんうん、器が大きくなったな、俺。今ならピザ1枚ぐらいなら入るかもしれない。

陰キャ/陽キャが限界突破すると何が起きるのか

大学生時代に学生寮に住んでいた私は、留学生と交流がそれなりにあった。アメリカから来て大学院に進学した生徒と話していると、向こうでやっていた全裸チャレンジについて教えてくれた。

エレベーターに乗り込んで、到着するまでに服を脱ぎ、また着直すというチャレンジである。私がたまげたのは、このチャレンジを女性もやっていたという点だ。さすがは世界に冠たる自由の国アメリカ。陽キャが限界突破している。

で、女性の友人2名が全裸チャレンジをするべくエレベーターで上がっていくのを見送り、降りてくると顔が真っ赤になっていた。理由を聞くと、途中の階で乗り込もうとした人間がエレベーターを止め、お着替え過程を晒してしまったようだ。

いや、そりゃあそうだろ。やはりGAFAMを生み出した国は失敗談のスケールが違う、と妙に感動したものだった。

そういえば、大学生時代に暇を持て余してサークルの部室にフラッと寄った時、後輩の女の子2名がメイド服のコスプレをしている場面に出くわしたことがあった(活動内容はメイド文化とかけ離れたサークル)。私が入ってくるのに気づいた後輩は2人とも事件性のある悲鳴を上げ、私は謝罪しつつ慌てて外に出た。

・・・あれ、よく考えると俺別に悪いことしてなくね?

私が目撃した後輩女子2名は、どちらかというと内気で、今の言葉でいうと陰キャに分類される子たちだ。

陰キャが限界突破すると、「他の何かになりたい」という変身願望や独自の世界観が生まれる。やはり陽キャ大国アメリカに対抗できるのは、陰キャ大国のクールジャパンしかない。

ドアの外で2人の可憐なメイド服姿を思い出しながら、私はピンポイントで愛国心を爆発させるのだった。

何をヌルイことを言っているんだい?

出版業界では「新書は3つ学びがあれば良い本だ」という考えが受け継がれているという。そのため、3つの話を薄めて薄めて分量を増やすのが編集者の仕事らしい。

正直、こりゃあAIに置き換わってゆくよなぁ、と思った。話を薄めないと読めない人間は、今やどんどん動画コンテンツに流れている。

人気配信者のいちばん面白い部分を抽出した切り抜きが大量に出回っていて、そこには10分程度で大抵3つ以上の学びや笑いが含まれている。

30秒のショート動画も3本続けて見たら3つの刺激が得られる。こんな環境で消費者の自由時間を奪い合っているのだから、「1冊に3つの気づき」は流石に悠長すぎないか、と思う。

10年以上前から、メルマガのように「分量は書籍より少ないが内容が濃く、単価が高いもの」へのシフトは始まっていた。

2000〜3000字の中で3つぐらい笑いや気づきがないと勝負にならない、というのが私の感覚だ。

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