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ソーシャルビジネスにできること、できないこと① ~ビジネスってそもそもなんだっけ?~

続き。問題提起の章。

1. ビジネスってそもそもなんだっけ?

1.1. 他者の課題を解決すること

まずは、ソーシャルビジネスも含まれているビジネスという概念を整理したい。「9割の社会問題はビジネスで解決できる」では、ビジネスについて以下のように述べている。

“あらゆるビジネスは、社会の何らかの課題を解決するためにあります。すべての商品やサービスは、人々が感じる不満や不便などを解消していて、どの会社も社会に必要とされているから存在しているのです。”(p33)

これについては全く異論がない。市場におけるビジネスの存在意義は、その商品やサービスを通じて他者の抱える課題を解決することである。他者がそれに対して価値を抱き、お金を払うからこそ利益が生まれるのだ。言い換えれば、他者の課題を解決しなければ、ビジネスは利益を追求できないのである。

余談だが、私は上記の意味で自由市場のメカニズムはとても興味深いと感じている。他者貢献的であることと、私利私欲を追求することを、このメカニズムはうまく結びつけているのだ。しかし、これは完全ではない。例えば、市場における価値の交換は、買い手と売り手の1対1の関係を想定している。売買の影響がその関係の外の人に及んでしまうものや(例:環境汚染を伴うもの)、そもそも1対多の交換しか成り立たないような性質のものは(例:国防や公園)、このメカニズムではうまく取り扱えない。こういったメカニズムの欠陥は、経済学において「市場の失敗」と呼ばれている。これについてはまた、社会問題を定義する際に後述したいと思う。

著者は続けて以下のようにも述べている。

“従来のビジネスが対象とする「不」は、基本的にマーケットニーズがあるものです。その不満や不便を解消してくれることに対して、十分にお金を払える人たちを対象としています。”(p33)
“一方、ソーシャルビジネスが取り扱うのは、「儲からない」とマーケットから放置されている社会問題です。”(p34)

さて、ここで「マーケットニーズ」という言葉が登場する。私の知る限りでは、人々がある課題の解決に対して抱いている価値を、その人数分だけ足し合わせたものが、市場における需要の規模、すなわちマーケットニーズの大きさである。著者はまるで、従来のビジネスで解決されていない課題には、マーケットニーズがないような言い方をしているが、厳密には課題として認識されている時点でニーズ自体はあるので、矛盾しているように思える。

いや、どうやら著者は商品・サービスに対する人々の購買力(商品やサービスを買う力)をマーケットニーズと表現しているようである。そしておそらく、その購買力の低さの関係で、(上段落の意味でのニーズはあるものの)商品・サービスとして供給が実現していないものを扱うのがソーシャルビジネスと主張しているようだ。実際、後に「『効率の追求』から取り残されている人」とも表現されている。さらに著者は、この購買力の低さ故に放置されている(上段落の意味での)ニーズを、急に「社会問題」というテーマ的にも重たい言葉に置き換えており、その詳細な定義も説明しないまま本は進む。

まあ、定義の曖昧さは一旦置いておこう。定義よりも私が気になったのは、次の二点である。まず、①果たして「社会問題」の全ては購買力の無さで説明できるのだろうか。また、②購買力が足りない、「儲からない」のであれば、そこに商品・サービスを提供することはビジネスになり得るのだろうか。

1.2. お金があっても解決できない課題はある

先に①について議論する。著者が明確に「社会問題」の「全て」を、当事者の購買力の無さで説明しているわけではないが、少なくともソーシャルビジネスが取り扱う「社会問題」はそこに該当するとされていて、取り扱わない「社会問題」については特に言及がない。また取り扱った結果、全ての問題が解消するわけでもないと思われる。それでも全体の9割が解決できるということは、9割かそれ以上の「社会問題」を購買力に絡めて考えている可能性は否定できない。

いずれにせよ、「社会問題」の原因が当事者の購買力の低さにあるならば、購買力が上がれば問題は解決することになる。お金さえあれば、問題はないというわけだ。本当にそうだろうか。明らかに「社会問題」と思われる人種差別と拉致問題を例に、具体的に考えてみよう。

「人種差別撤廃条約」よると、人種差別とは、

人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの
外務省HP

と定義されている。では、差別をされている側は、差別をする側あるいは為政者に対し、ここに記載のある「区別、排除、制限又は優先」について撤廃してもらえるよう、お金を払えば良いのだろうか。それで差別をする側が収まるようにも思えないし、収まったところで本質的な解決であるようには到底思えない。そもそも一方的に被害に対しお金を払わなければならないことが、人種差別そのものと言える。

北朝鮮による拉致問題は、どうだろう。当事者(拉致被害者の親族など)がお金を積めば、北朝鮮政府は拉致被害者を返してくれるのだろうか。あまりそうも思えないが、例えば返してくれたとして、それは「再び拉致を起こせばお金を稼げる」という歪なスキームを生み出し、被害を拡大させてしまうのではないだろうか。

このように、人種差別や拉致問題以外にも、例外はたくさんありそうだ。やはり一般的に「社会問題」の原因を当事者の購買力の低さとするのは、かなりの無理がある。もちろん、購買力の低さを原因とした「社会問題」は、本で紹介・説明もされていたし、一部存在はするだろう。しかし、そこからの一般化は難しいということである。

であるならば、「社会問題」はどう定義すれば、ソーシャルビジネスが結びつくような形で整理できるのだろうか。「社会問題」の定義・分類については次の第2章で、そしてその定義・分類の中で、ソーシャルビジネスがどのような問題に対してどう貢献できるのかについては第3章で取り扱いたいと思う。


1.3. 「ソーシャル」はボランティアを足すだけ?

次に②を議論する。ソーシャルビジネスは「儲からない」課題を取り扱うものと著者は主張しているが、「儲からない」のであれば、どうやってビジネスとして成り立たせるのだろうか。本を読む限りでは著者はシンプルに、その非効率を上回るだけの利益をなんとか別のところで付加価値として作り、黒字化させるという思想のようだ。「非効率を含めてビジネスをリデザインする」という風にも述べている。

たしかに、生み出す利益に余裕があり、それを社会貢献のために用いようというのは崇高だし、これからの社会にとって大切な取り組みだ。そこは間違いなく同意する。しかし混乱するのは、金銭的余裕を社会貢献に回すことと、寄付やボランティアの本質的な違いは何か?という点である。寄付やボランティアの要素をビジネスにくっつけるだけならば、専門家によるプロボノや大企業のCSRなどとも似通ってくる。ソーシャルビジネスとは、どこか新規性や革新性を伴うものというイメージがあるが、これだとそこが薄れるような気がしてならない。

また、ソーシャル分野にビジネスを用いることの最大級のメリットは、そこに携わる人間が経済的に損をすることが抑えられ、ソーシャルに取り組むためのハードルを下げられることだったのではないだろうか。非効率をそのまま受け入れ、本来受け取れるはずであった利益を放棄するという考え方は、そのメリットをも放棄してしまっているように思える。そうなってくると、ソーシャルに取り組む人は、物理的に余裕のある人や利他心の強い人にどうしても限られてきてしまう。言い換えれば、取り組みの再現性(他者による真似のしやすさ)が下がってしまうのである。

著者の田口氏も再現性は気にしているはずで、本の中でもいかに社会起業家やソーシャルビジネスを増やすための環境づくりをボーダーレスジャパン内でしているか、語られている。しかし実際のところ、やはり一般的に見ると、まだまだボーダーレスジャパンにいる社会起業家たちは、相対的に利他性も能力もかなり高い人たちなのではないだろうか。社会貢献のために非効率を受け入れながらも、それを上回る利益を出す起業家たちなのだから。とすると、これでは一般的な再現性が高いとは言えないだろう。

もちろん、再現性が低ければソーシャルビジネスでないというわけでもないし、価値がないというわけでもない。本質的には社会貢献が実現していれば、それだけで十分価値は高いのである。しかし、そのソーシャルビジネスを仕組みとして評価するとなった時に、やはり再現性は大きな軸の一つになるのではないだろうか。

では、ソーシャルビジネスの再現性を上げるためには、どうしたら良いのだろうか。これを第4章にて、ソーシャルイノベーションという言葉の文脈の中で説きたいと思う。


第2章へ続く。


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