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ソーシャルビジネスにできること、できないこと② ~社会問題を定義・分類する~

続き。ビジネスで解決に取り組むことのできる社会問題とは何か?を問うため、前章ではビジネスの理解に努めた。本章では社会問題の理解に努め、それを定義・分類する。

2. 社会問題を定義・分類する

2.1. 主観で定義するが客観は必要である

そろそろ「社会問題」の「」を外したい。そのためには、当シリーズにおける「社会問題」に、ちゃんとした定義を与えなければならない。そこで社会学の有名テキスト、ジョエル・ベスト氏による「社会問題とは何か」(Social Problems、第三版[2017年]の翻訳版)を参照してみた。その第1章にて、定義へ向けた二つのアプローチ、主観主義と客観主義が紹介されている。ざっくりと嚙み砕いてみよう。


客観主義では、社会問題を「有害な状態」と特徴づけ、
その有害さ故に公共的論争に及ぶものを社会問題として定義する。「有害な状態」という客観的に測定可能なものを軸とするため、客観主義と呼ばれるわけだ。わかりやすい。しかし、ベスト氏はこの主義には三つの問題点があると主張する。

一つ目の問題点は、有害の尺度が曖昧であることだ。往々にして、客観主義に基づく定義はその尺度を明らかにせず、個人の自殺から環境問題まで様々な形態の社会問題について「有害」「幸福を蝕むもの」など一般的な用語にそれをまとめているに過ぎない。したがって、定義することが考察上、本質的な意味をなさないのである。

二つ目の問題点は、全く同一の状態が複数の社会的な害を有し、そのため別々の社会問題として認識され得ることだ。テキストの中では例として、肥満があげられている。肥満という同一の状態であっても、体重差別という問題と、個人の不健康という問題と、社会的医療費の増加という問題などの、複数の害がそれぞれ存在する。これは、客観的な尺度が明らかに統一できていないということだ。

三つ目の問題点は、仮に有害さに関する統一的な尺度があったとして、それだけでは社会問題として認識されていない例が歴史上多々あることである。例えば性差別の問題は、差別という意味で人種差別と害の尺度は変わらないはずだ。ところが歴史的に見ると、性差別が問題として認識されてきたのは人種差別よりも後であり、つまり同じ害を及ぼすものが時代によって社会問題と認識されたりされなかったりするということである。

これらを踏まえて、ベスト氏は客観主義ではなく主観主義を支持する。主観主義では、「人々の関心事」として社会問題を特徴づけ、それが問題として社会的に訴えられている(テキスト内ではクレイムという)事実を基準とする。これにより、同一の状態が複数の社会問題となっていたり、同じ客観的尺度で見れるものが社会問題として認識されたりされていなかったりしても、その定義からは逸脱しないということだ。テキストでは続けて、誰が誰にどう訴えていくかという過程に問題を整理し、社会問題が生じて「政策的に」解消されるまでの流れを分析する。

「政策的に」と述べた通り、訴えを中心とした社会問題の過程では、大衆や権力者へ訴えを伝播するメディアを除き、ビジネスの役割は明記されていない。そもそもビジネスについて、それが直接的に社会問題を取り扱えるものとはベスト氏にはあまり認識されていないようである(ただし、政策には企業などの組織内のものも含まれている模様である)。このままでは、ビジネスと社会問題の関係性を整理するのは難しい。

さて、では定義としては客観主義より主観主義が良いとして、やはり私が気になるのは、結局のところどういった状態を捉えて人々はそれを社会問題として訴えるのか?という点だ。テキスト内でも、訴えの「論拠」として、なぜそれを是正すべきなのか、人々は価値規範(こうあるべきだという望ましさ)を示さなければならないとしている。

規範ということはすなわち、客観的に正当化され得る基準がそこに存在するというわけだ。その基準を損ねていると認識されたからこそ、人々は問題を訴え、是正するのである。ならばその基準について、どういったものが現存するかを整理することの意義はあるように感じる。どうやら、定義あるいは必要十分条件として客観を取り扱うことは出来ないにしても、社会問題の必要条件としては規範の侵害があるため、その規範の中身について客観的に整理を進めることはできそうである。必要十分という縛りを外すことで、上記の客観主義に対する問題点はかなり緩和・解決できそうである。

<必要条件、十分条件、必要十分条件ってなんだっけ?>
・必要条件:A⇒B(AならばB)であれば、BはAの必要条件である
・十分条件:A⇒B(AならばB)であれば、AはBの十分条件である
・必要十分条件:A⇔B(AならばB、かつBならばA)であれば、AはBの、そしてBはAの必要十分条件である

上記の話では、【「社会問題」ならば「規範の侵害」】は満たされるが、【「規範の侵害」ならば「社会問題」】は満たされない。したがって「規範の侵害」は「社会問題」の必要条件であり、十分条件ではないことがわかる。一方で、【「社会問題」ならば「人々が問題だと訴えるもの」】は満たされ、かつ【「人々が問題だと訴えるもの」ならば「社会問題」】も満たされている。したがって「人々が問題だと訴えるもの」は「社会問題」の必要十分条件であることがわかる。


2.2. 制度の視点から分類する

ところで、規範の侵害を人々が訴えるということは、規範をつかさどる何か共有の構造に欠陥があるのでそれを改善しようという話に他ならない。共有のものであって、かつ改善の余地がなければ、他者にそれを訴えても意味がないからだ。この共有の構造とは、人々の生活をふちどるために人々がつくるものであり、すなわち制度である。上述のベスト氏の議論を、制度という言葉を使って言い換えてみると次のようになる。

まず制度が実現する社会の状態があり、それを人々は主観的に評価する。そしてそこで何か問題があると判断された現象が社会問題であり、その原因である制度の欠陥を特定し、改善するのが問題解決の過程である。

また、この文脈で規範を言い換えると、それはその制度が導くべき望ましさの方向性である。その望ましさを達成できないのであれば、制度を改善しなければならないわけだ。そして、規範というものは該当する社会・時代によって変わり得て(これが定義の客観主義への批判であった)、それに対応する形で制度も進化してきたと歴史的には理解されるだろう。ただし、その中でも一定の普遍性を備えた規範は存在する(歴史的に構築されてきた)と思われるため、それを積極的に整理していこうというのが今回の試みだ。

さて、制度にはいくつかの分類が存在する。社会制度、宗教・文化的制度、政治制度、経済制度などだ。制度はそれぞれ、その分野の規範に基づき人々に評価される。

それら制度の中でも、ビジネスの在り方を定めているのは経済制度だ。制度に関する著名な経済学者、ダロン・アセモグル氏によると、経済制度とは「人々の経済的インセンティブを形づけるもの、取引の可能性や、経済的資源の配分を定めるもの(私訳)」とされる。例えば、私有財産制度(お金やモノの所有に関する権利の制度、ビジネスの根本でもある)などがここに該当する。

<ダロン・アセモグル氏の国家と制度の見方>
アセモグル氏によれば、経済制度と政治制度(政治的権力の配分を定めるもの)は互いに影響を与え合いながら、それを抱える国家の在り方(繁栄、衰退など)を左右していく。この議論については、当シリーズの外にあるため、割愛する。ご関心のある方は、アセモグル氏の著書「国家はなぜ衰退するのか」(Why Nations Fail[2012]の翻訳版)を参照して欲しい。


このように制度を分類して考えると、個別の社会問題は、単数あるいは複数の制度における規範を侵害しているものとして捉え直すことができる。また、ある制度における改善は、その制度外にある問題には(少なくとも直接的には)届かないと考えられる。単純に、ある規範について侵害が起きているときに、その規範と関係のない制度を改善したところで、侵害は防げないからである。

例えば、第1章で触れた拉致問題は、国際的な政治制度の中にある社会問題であり、これを経済制度の中から、それこそビジネスでアプローチすることは出来ない。なぜなら、第1章で述べた通り、経済的資源の配分の変化、すなわちお金のやり取りで解決できる問題ではないからである。

したがって、ビジネスで解決に取り組むことができる社会問題は、基本的にそれを囲む経済制度における規範の侵害に関するものだけだと思われる。


2.3. 経済制度における規範を整理する

そこで次に、経済制度が従う具体的な規範の内容を整理したい。経済制度、あるいはそれが実現する経済的配分は、一般的に二軸で評価される。効率性と公平性だ。効率性とは、無駄をなくし、可能な限り全体としての規模を大きくしようという視点である。公平性とは、実現する経済的配分の不平等さを減らそうという格差是正の視点である。

これらの説明は概念としての抽象的な整理であり、具体的な基準は効率性・公平性共に複数存在し得る。ここでは、重要と思われるものを一つずつ紹介する。規範的な議論では、抽象的な望ましさで合意できていても、具体的な基準となると合意ができないこともある。

まず、効率性には「パレート基準」というものがあり、経済学者の間ではこれが効率性の具体的基準として概ね合意が取れている。パレート基準とは、「誰も損をせずに誰かが得を出来る」ような配分の移動が存在しない状態を最も良いとしていて、「パレート最適」「パレート効率的」などの言葉で表現する。逆に「誰も損をせずに誰かが得を出来る」ような配分の移動が存在する場合、その移動による改善を「パレート改善」という。つまり、パレート改善の余地がなくなったとき、経済的配分はパレート最適・効率的になるというわけだ。

一方で、公平性の基準については、私の知る限り議論があまり進んでいない印象である。基準のアイディアがないというよりは、合意が取れていなかったり、実装が難しかったりなどという問題に直面しているように思える。特に、公平性と効率性のトレードオフがある局面においては、後者に基づく反発もあり、なおさら実装は難しくなる。

具体性のある基準では、ジョン・ロールズ氏の「マクシミン基準」が有名かつ分かり易い。マクシミン基準とは、対象の社会に属する人の中で、最も不遇な人の状態により、その社会の状態を評価するというものである。こうした基準の実装においては、まず何をもってして不遇さを測るかや、どうやって最も不遇な人を特定するかなど、丁寧に議論を進めなければならない。

<ジョン・ロールズ氏の思想「無知のヴェール」>
無知のヴェールとは、経済的配分を含む社会の状態について、自らがどのポジションにいるかを知らないという前提で、評価に努めなくてはならないという考え方である。現実的には皆、自身の置かれている状況を知っているわけだが、理想的にはそれを社会状態の評価と結びつけてはならないということだ。このような視点が、まるで無知になる布(ヴェール)を通して社会を見るような方法であることから、無知のヴェールという。

以上のように、経済制度における規範は効率性と公平性であり、このいずれかまたは両方の規範が侵害された時、それは社会問題となり得る。例えば、環境汚染は効率性の侵害に当たる。環境汚染を伴う取り引きは、その取り引きの外にいる多数が損をするため、パレート効率的でないのだ。また、人種差別は公平性の侵害に当たる。特定のグループについて経済的機会を奪い、その格差を良しとしてしまっているからだ。なお、ロールズ氏の考え方では、社会的配分の評価の際に匿名性を重視するため、特定のグループが構造的に負を被る時点で匿名性は失われており、公平でない。


2.4. 本章のまとめ

そろそろ読者の皆様はお腹いっぱいだろうか。私は手が疲れてきている。一休憩する前に、本章の内容を軽くまとめておこう。

本章ではまず、社会問題を主観主義に基づき「人々が問題だと訴えるもの」と定義した。しかし、それだけではビジネスの役割が明確でなかったため、その訴えの必要条件として規範の侵害があることに注目した。そして、規範をつかさどる制度の視点から、社会問題を分類した。今回のシリーズで関心のあるビジネスは、それら制度の中でも経済に該当する概念である。ある制度内の改善が、その外の問題に影響を及ぼすことが出来ないことを考慮すると、ビジネスがアプローチし得る社会問題は経済制度内のものだけとなる。そこで、経済制度における規範を効率性と公平性に整理し、その侵害により社会問題と認識されているものを紹介した。

さて、まとめ終わったので一旦筆を置く。次章では、より具体的にソーシャルビジネスに何が出来て、何が出来ないのかを考察していきたい。

第3章へ続く。


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