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制度によって栄えた都市と自由によって進化した農業 - 【人口世界一:その8】


今回は今までにまとめた徳川幕府が敷いた制度が、結果としてどの様に都市や人々の生活を発展させたのか、その辺りについて深掘りしていきたいと思います。


都市部の発展の流れ

徳川幕府が開かれる直前の16世紀に、日本列島のいたる所で都市は数も規模も拡大しつつありました。その理由として、互いに競い合っていた大名たちが城下町に恒久的な守備隊をおき、そこに配下の将兵たちを呼び集めて編入させたことが挙げられます。これにより都市の規模拡大は加速していきました。また、城下町には武士の他にも物資の補給担当者や職人、商人などが城を囲うように集まっていきました。

一方、16世紀末の権力闘争と戦闘の過程で諸大名は盛衰を余儀なくされました。勿論、それに合わせて城下町も盛衰しました。つまり、そこに住む人々の生活は常に不安定だったということでした。全国各地の都市がより安定した状態に落ち着いたのは徳川政権の支配が確固としたものとなり、大名たちの連合体制が全国的な規模で安定してからのことでした。

17世紀にこれが実現するとかつてない規模での都市と商業の繁栄が起こりました。大半の藩では武士が城下町に永住することになり、小さな藩でさえ武士に給与を与え、武士はその全てを市内で消費するようになりました。このような都市化を促し、個々の藩の経済を大坂および江戸と経済的に直結させた最大の要因は参勤交代制度が実施されたことでした。


参勤交代がもたらした効用

参勤交代制の仕組みや背景はこちら。

この制度がなかったならば、個々の藩は横のつながりを欠いた自給的な小規模の国として発展した可能性が大きかったと思われます。各城下町は小規模な経済の中心として外縁部の農村からの供給によって支えられることになり、地方ごとに藩の経済が自己完結的になったはずであり、その結果、藩同士の横の交流は比較的限定された様に思われます。

人口が集中した各藩の城下町は上述通り、藩内の農村部との間に密接な経済的つながりを築いていはいましたが、これ以外に参勤交代制の下で江戸と行き来する必要、江戸と国許の両方に居を構える必要から、藩境を超えて人、金銭、商品、サービスが大量に流通することになりました。

参勤交代は大名にとって大きな経済的負担でしたが、その一方で、地域間の通商を拡大し、遠方の都市の市場、とりわけ江戸と大坂の市場に向けて地元の特産品の生産に特化することを促す効果もあったのです。


江戸と大坂、2大都市の発展

当時、日本最大の都市はもちろん江戸でした。徳川幕府の行政機能の中枢であり、徳川家直属の武士たちと各藩の江戸詰めの家臣からなる多くの武士人口を擁していました。

一方、江戸に劣らない規模の都市が徳川幕府の商業面での中心地であった大坂でした。市の経済を動かしていたのは数十件の大手米穀商で、全国各地の大名から大量の年貢米が江戸詰めの家臣団に支払う給与資金として現金化するために運び込まれ、米穀商たちがその年貢米を買い取って都市に住む消費者に売りさばく、という事業を営んでいました。

この二つの大都市も両者を結ぶ街道も大変活気に満ちていたと言われています。当時の都市や町は人が多くごみごみした場所でした。1700年の時点で全体として日本人の約5〜6パーセントが人口10万人以上の都市に住んでいました。同時期のヨーロッパでは人口10万以上の都市に住んでいた人々の全体に対する割合はわずか2パーセントだったことからもいかに日本の都市化の進み方は目覚しかったかが分かると思います。

都市の成長は大きな経済的影響をいくつももたらしました。一つは都市の住民に物資を供給するための、そして何百人もの家臣を従えた大名行列が江戸と国許を行き来するのを可能にするための交通と通信のインフラが整備されたことです。

詳しくはこちらの記事に纏めています。


農村部の発展

村の管理という面で徳川幕府が村の内部にまで監視や行政機能を置くことはありませんでした。藩も幕府も個々の世帯から直接年貢を徴収することはなく、年貢は村全体を一単位として課せられ、年貢を村人に割り振る責任は、村の首長や長老たちに委ねられいたそうです。これにより村人たちは年貢を納めるという基本的な義務を果たせば村内の内政の運営や市場向けの生産を比較的自由に行うことができました。

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こうした中で農民たちが農法を改善した結果、農業生産と収穫量は江戸時代に大幅に増加しました。信頼できるデータがないのですが、18世紀から19世紀はじめにかけて収穫量が50年毎に倍増するケースもあったと言われています。

収穫量の増加を支えた要因として、新たな耕作技術の開発というよりかは、既存の技術を少しずつ改善したり、普及や利用の方法を改善したりといったことが大きかったようで、鍬の利用を増やすとか、稲扱きの道具を改善するなどの簡単な工夫から、種籾としての収穫量の多い品種を採用したり、魚粉などの肥料の使用料を増やしたり、足踏み式の揚水器を用いて田の灌漑を効率化する等の工夫を凝らした様でした。

このような農法の継続的な改善と普及を可能にした一つの基本的な変化は読み書きの普及でした。教養のある武士、一部の僧侶や農民が、農村部の人々に塾で読み書きを教えるようになりました。塾は村の寺で開かれるのが一般的で、読み書きを習得する農民の子弟は男女を問わず次第に増え、その内。農法の改善を心がけている篤農家(とくのうか)の筆になっていきました。効果的な農法について解説したhow toマニュアル本が盛んに刊行され、17世紀以降広く読まれるようになりました。

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平和が訪れ農業生産量が増加するに伴い17世紀には日本の人口が急増しました。1600年から1720年までの期間における年平均人口増加率が0.4から1パーセントの間だったことから、わずか1世紀余の間に日本の総人口が倍増したことになります。ちなみに17世紀中にイギリスの人口は年平均0.1パーセント増加したにすぎなかったことを考えるとここでもいかに急激な変化が起こったかがわかります。


都市の発展と農村の発展のエッセンスを現代社会に当てはめてみると

今回のテーマで面白かった点は日本の各都市(藩)の発展は参勤交代という幕府が敷いた制度によって発展を促され、都市の中の農村部での生産性は自由度を保ったことで発展したことでした。

これを例えば会社の中の組織運営モデルとして応用できないかと考えると面白そうです。例えば『課』を会社の維持に必要な各機能毎に作り、その『課』同士の交流は強制的なルールとして促します。参勤交代制をそのまま適用するとしたら、課Aのメンバーが課Bに強制的に一定期間組み込まれるなど。

一方で、その『課』の運営方法は求められているアウトプットを出している限りは外部から干渉されず各課の自治権に委ねるといった具合です。

こうすることで各課では独自の文化や、効率性のノウハウが溜まり、それを強制的に他の課へとフィードバックされるサイクルが構築できそうです。

実際にはこんな簡単に組織設計は出来ないと思いますし、色々と既存の仕組みに歪みを生じさせることは間違いないのですが、こうした江戸時代に多くの効用をもたらした制度のエッセンスを抽出して現在社会に当てはめると、思考の幅が広がり、凝り固まった価値観を解きほぐすという意味でも有益かと思いました。


今後このテーマで深掘りしていく点

引き続き、都市の発展とその制度や内情について調べを進めていきたいと思います。

今日はこの辺で。

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