見出し画像

楽しい。それが、辛い。──ドラマ「日曜の夜ぐらいは…」を観たよ

楽しい、それが、つらい。苦しいだけなら何も考えずに時間をやり過ごしてればいい。でも、楽しいことがあると、苦しいことの苦しさがパワーアップして襲いかかってきやがる。これが、この上なく、つらい。だから、楽しいことはなるべく避けて生きていきたい。

ぼくは、昔から上手にはしゃげなかった。はしゃぎたい気持ちがないわけではないのだが、どうしてもぎこちなくなる。単に不器用なだけかと納得していたが、最近そうでもないと思い始めている。無意識にはしゃぐことを抑制してしまう自分がいるために、いざはしゃごうとするときに必ずストップが掛かってしまっていたのだ。感情表現は中途半端になり、どうしてもぎこちなくなってしまう。

なぜ無意識にストップがかかっているのか。それは明確に、はしゃいだあとの虚無感に耐えられないことをよくわかっているからだ。はしゃいだ後には必ず、気分の波が下降の一途を辿る。はしゃぎ具合が激しいほど、虚無への下り坂も急になる。だったら最初から、波風立てない方がいい。嬉しいことがあっても、はしゃがない。そうすれば、嫌なことがあっても、落ち込まない。落ち込まないために、はしゃがないのだ。具体的なことは何ひとつ思い出せないのだが、はしゃぐ度に落ち込んできたのだと思う。経験が、無意識を作っている。

人生は、それなりに面白い。ただしそう思えるのは、常に背後に付き纏っている大きな黒い穴から目を逸らしているときだけである。その穴の存在を、意識の外に追い出せているときだけ。ひとたび後ろを振り返ろうものなら、もう一生戻って来れないのではないかと思うくらい、黒い穴に吸い込まれそうになる。なるべくその穴の存在に気づかないように、他のことに夢中になっておく必要がある。考え始めたら最後、なのだ。でも本当は、その黒い穴も、自分で作り上げた幻想なのだということを、ぼくはよくよくわかっている。

生きることに、意味などない。当たり前の話である。というか、「意味」の本質からして人間が後から付与するものなので、そりゃ付与しなければ、ない。でも、ぼくらは、意味のないことに耐えられるほど、強くない。意味を求めてしまうのは、弱さゆえである。意味なんてないのに、生きている。意味なんてないのに存在している、だからこそ、尊いんだ。そう本気で思えたら、強くなったと言っていい。それは、背後につきまとう黒い穴を怯えることなく直視できるようになることだ。

やや抽象的に書いてしまった。でも、そうとしか言えないのである。だって、具体的なことはドラマ「日曜の夜ぐらいは…」第一話で描かれていて、ここにいちいち記述するより観た方が早いんだもん。

感傷的になってしまった。今はうまく作品と距離が取れていない。また近いうちに、思い返してみて、ぼくの心がなぜこんなに動いているのか、なぜ感傷的になってしまっているのか、考えてみようと思う。今日はとりあえず、ここまでにしておこう。

この記事が参加している募集

新生活をたのしく

私のストレス解消法

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?