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頑張らなくていい理由を求めて

《…そして、半生が過ぎるころになると、頑張らなくてもいい言い訳がほしいという考えで、頑張らざるをえなくなるのだった。》

あらゆるものが民主化され、チャンスが平等になっていけばいくほど、ぼくらの生活におけるあらゆる行為は、その人自身の選択の結果だとされる。選択したのなら、責任が発生する。自由になればなるほど、責任を行為者自身に降りかかってくる。

義務教育はまだしも、高校以上の教育機関は、選択して行くものである。授業がつまらない、校則を守りたくないと思うのは自由だが、それも含めて全部あなたが選んだ道である。嫌ならやめたらいいという話になる。

上司と性格が合わない、会社の方針が気に食わない。じゃあ転職すればいい。この会社の採用条件・求めてる人材が前時代的だ。じゃあ受けなければいい。

自分の選択に対して文句を言っても、それはあなたが選んだんだから嫌なら勝手にやめればいいじゃんとなる。それを言っちゃあおしまいよ、だが、これはこれで全く筋が通った反応である。

そしてぼくらは、自分に責任が跳ね返ってこない言い訳を探す。探せば探すほど、どんどん事は肥大化していく。自治体が悪い、社会が悪い、政治が悪い、国が悪い、資本主義が悪い。自治体くらいだったら、引っ越せば?で終わりだか、国が悪い、資本主義が悪いくらいまで抽象度をあげれば、責任転嫁が可能になる。

おそらく、自由になればなるほど、チャンスが公正に与えられれば与えられるほど、大きなものへの文句は増えていくことになる。全てが選択できるようにになれば、全ての責任が個人に帰属され、言い訳が難しくなる。でも鬱憤は晴らしたい。頑張りたくない。だから、比較的選択できないとされるものが批判の的となる。家族や親なんかもそのひとつだろう。

ぼくが言いたいのは、どこまで逃げ込んでも、どこかで選択を迫られ、責任を担う必要が出てくるということを、真正面から認識する必要があるということだ。そしてこれからどんどん自由化が進み、選択が増え、責任が帰属されていくようになると思われる。というか、人々の大抵の要求(自由を増やせ、もっと公正にしろ)は、結果的にこれを招き入れるものなんだと思う。ほんとうにそれを待ち望んでいたのだろうか。頑張らなくていい理由を探し続けた結果、頑張らざるを得ない社会を招いているのではないだろうか。

頑張らなくていい理由を求めて、手触りのない大きなものに文句を言う前に、向き合うべき現実というものがあるような気がしてならない。

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