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6 ただ「愛」だった。

今だから書くが、私の母は今年の1月にあの世へ行ってしまった。83歳だった。

母はずっと実家に住んでいた。父そして祖父母をしっかりと送り出し長い事、実家で一人暮らしだった。少しづつ不自由になってはきていたが亡くなる数ヶ月前までは一人で元気に全てやっていた。

そんな実家も今は誰も住まない家となった。私は生まれた時から当たり前に住んでいた家。私は男3人兄弟の末っ子。兄たちと家について話し合った。結局処分するということになった。そのため実家にあるものを整理している。その中で私は実家にあった写真を整理して、データ化することになった。兄二人は写真をデータ化するなんて言う事とは縁遠いので私がかって出た。

実家の写真はものすごい量あった。それらを車に積み私の自宅へ運んだ。スキャナからPCに写真を取り込んでいるのだが、ものすごい写真の数なので正直数ヶ月かかるのではないかと思うほど。

さて作業を開始。最初のうちは作業の手順が決まらず右往左往しながら写真をデータ化していった。一枚一枚できるだけ綺麗に残そうと思いながら。そういう気持ちで写真を眺めているとふと当時の実家でのその瞬間の声が聞こえてくるようだった。

この時、父や母はどんな気持ちだったのだろう。二人の兄はどんな思いでいたのだろう。

話は飛ぶが、母の葬儀は家族葬という形式でおこなった。だれも親戚という人を呼ばず、兄弟家族で執り行った。お通夜の時、兄達とゆっくり話す機会に恵まれた。兄達はそれまで話す機会のなかった当時の思いを私に語ってくれた。私は兄達がそんな風に思っているのだなんて思いもよらなかった。どんな思いなのかということにすら考えたこともなかった。(お気楽な弟だったからなのか)。初めて聞いたことばかりにただただ驚くばかりだった。

写真をスキャンする。兄達の思いを重ね合わせてしまうと、何とも言えぬ思いに涙が止まらなくなった。号泣した。

父や母の親としての思い、そして兄達の思い、そこにはそれぞれの思う「愛」の形が見えた。私は生まれてこの方、そんな思いを感じられずにいた。(頭ではよく理解はしていたが。)色々とあったにせよそこには「愛」しかないのだ。そこに気がついてしまうと、写真をしっかり見ることなんて出来なくなる。ただただ涙が止まらなくなるから。

この年齢、経験があったからわかったことなのかもしれない。加齢によって涙もろくなっただけなのかもしれない。

でもこう思う。兄達にこの写真を一枚一枚しっかりと見て欲しいと。

その時のことを思い出すこと。思い出したくないこともきっとあるだろう。それにもしっかりと目を向けた時、そこにすら「愛」しかないことに気づくだろう。

家族がそれぞれの思いで「愛」を表現しているのだ。ただただ感謝だった。

そんな思いに気づいた、6月の最初の日だった。


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主人の居ない家に、今年もいつものようにチューリップが咲いていた。

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