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クーデターから一年半、オランダからミャンマーを思う人々

オランダで1年目が終わった。アパートの契約が切れて引越しを行なっている途中、アジア系の学生に話しかけられた。
以前から僕はミャンマーで暮らしていたことをコミュニティ内で伝えていたので、ミャンマー人の彼から声をかけてくれたのだ。
彼もちょうど引越しの最中で、大きな荷台がついた自転車を半日レンタルして、荷物を移動させているところだった。

彼はチン州の近くカレーミョ(kalay)の村に住んでいたのだと言う。
父はシャン、母はミゾラムという少数民族で、彼も独自の言語を少し話すことができるそうだ。
ミャンマーからオランダの大学に進学し、bachelorでコンピュータサイエンスを学んで2年が経つという。

彼と今のミャンマーについて話をした。
最初は平和的だった国民の抗議に国軍は銃を向け、厳しく弾圧を始めた。それ以降、抵抗も徐々に武装の色を帯びるようになり、国や民族どうしで協力することが難しくなってきた。
国軍は腐敗が著しく、上級士官が下士官に「抵抗勢力を逮捕してこい」と命令して放逐し、逮捕者/殺害者が出ないと、下士官をその場で撃ち殺してしまう。
だから下士官は末端の兵士を使って、なんの言われもないただ村で生活する一般人を捕まえて「抵抗勢力」として処刑しているのだと教えてくれた。

画像の中心、赤い船底をもつ細長い船に彼は宿泊している

彼は今、オランダのCOAというサードパーティが保有する船の一室に泊まっている。
工業地帯に停泊した船は、トルコ人や中国人などの移民、難民たちが宿泊している。その多くは英語を話すことができない。
彼は移民局の住民票の更新、学費の支払い、生活費を、これまでミャンマーの口座から少しずつ送金してもらい、生活を送っていた。
しかし、国軍の規制によりミャンマーの銀行口座からオランダへの送金ができなくなってしまい、支払いを行うことができず学びが中断されているという。

国に帰れば自分はおそらく殺されてしまう。今の場所で学びを続けたいと、彼は語ってくれた。

僕と彼が同じく通うRUGのゼルニケキャンパス。オランダ北部のこの場所に、辿り着くまでの道程を振り返ると、それが簡単に奪われていくことに言葉を失う

僕が当事者として知っているのは「障害で学びが継続できない」ということだけだった。紛争やクーデター、貧困、女性で生まれたことなど、世界中で、さまざまな要因で、学ぶ機会は奪われる。
子どもの権利や人権は、理不尽に、簡単に奪われ、壊されるのに、それを取り返すには途方もない困難が立ちはだかる。
大人の身勝手な理屈の代償を払うのは、いつだって次の時代を生きる若者や子どもたちだ。

僕は胸がいっぱいになり、言葉につまった。
僕が何より尊いと感じたのは、その困難の中で、
彼は、決して自分を諦めてはいなかったことだ。

僕は彼に日本が曖昧な姿勢を続けることをどう思うか、そして国際社会にのぞむことを聞いてみた。

彼は言った。「日本が様々な国との関わりの中で、感情論とは別の慎重な選択をとらざるをえないことを理解している。それでも、時が来れば、日本はミャンマーの国民に寄り添った支援をしてくれると信じている。」

その純粋な期待は、日本の外交のひとつの成果のはずだ。だからこそ、日本人として彼らの期待に応えなければいけない。決して裏切ってはいけないと思った。

彼と別れる際に見た雨上がりの青空は、どこかミャンマーを思わせた


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