「哲が句」を語る 私とは何か

「「哲が句」を語る」と題して何回かの記事を続けてきましたが、いったん途切れました。途切れた事情は措くとして、ここではこれまでの流れを先に進めるのではなく、これまで書いてきたことを別の角度からご説明します。


私も、たいていの人と同様、「私とは何か」といった問いを抱きました。
たいていの人は、多くの偉大な先達も含めて、何らかの答えを求める努力をしてきました。
しかしながら、私から見ると、それらが徹底した問い方であったとは思えません。
多くの先達の思索については、私は述べる能力もありませんし、述べる立場でもありません。
ここでは、私自身が徹底した問い方であると考える筋道についてご説明します。

「私とは何か」という問いは、「私」について問うているようでいて、それだけでは不十分です。すなわち、「私」とは何かを問うことは同時に、「私以外(非私)」とは何かについても問うものでなくてはなりません。
多くの場合、「私」とは何かを問うことに急で、「私以外(非私)」については既成の考え方を持ち込んだり、不徹底な考察で済ませてしまったりしがちです。恐らくは、多くは無自覚のうちにそのようにしてしまっています。
そのことに無自覚なまま問いを進めると、既成の、あるいは不徹底な「私以外(非私)」との対比において「私とは何か」を求めることになり、徹底した真っすぐな答えにたどりつくことはありません。
従って、「私とは何か」を問うためには、まず「私」と「私以外(非私)」とを分けることから始めることになります。
そのような具合に、「私とは何か」という問いを、3段階を踏んで進めたいと思います。

【第一段階】
「私とは何か」を問うためには、まず「私と私以外(非私)とを分ける」必要がありますが、第一段階はその過程のうち、「分ける」という部分に焦点を当てます。
何かと何かを「分ける」あるいは「分かれる」ということが、どのように成立しているのか、あるいはどこから生まれてきたのか。
この第一段階に答えるための考察が、「「哲が句」を語る セックス革命 他者の誕生」で述べた内容に相当します。
40億年ほど昔に生物、すなわち細胞が生まれます。
細胞は、細胞の内側と外側とに分かれています。この段階で「分かれる」ということが成立していると考えることも可能かもしれませんが、この段階で成立していることは「分かれる」ということであるよりも、細胞の内側と細胞の外側とがそれぞれ別個に成立しているということであって、まだ「分かれる」ということ自体が成立しているとは言えないのではないかというのが私の考えです。
この事態に決定的な変化が生じるのが「セックス革命」による「他者の誕生」です。
他者の誕生によって、細胞はその内側が成立しているだけではなく、他者との間で「分かれている」ことの成立を迫られることになります。
「セックス革命」 他者の誕生|ego-saito|note

【第二段階】
セックス革命によって、「私と私以外(非私)とを分ける」ことのうち、「分ける」という段階が成立したと考えます。
しかし、この段階では、他者は誕生しても「私」はまだ誕生していない、と考えます。
第二段階は、「私」がどのように成立したのか、どこから生まれてきたのかを考えます。
それに答えるための考察が、「「哲が句」を語る 始まりの誕生」で述べた内容に相当します。
「私」とは、始まって終わるものであると考えます。始まり、そして終わるということがなく、ただ「ある」だけのものであるならば、「私とは何か」という問いが生まれ、問われるという時間の流れは不要だからです。
下記の記事で、生物が多細胞化することで「はじまり」が誕生した過程を述べています。
「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito|note

【第三段階】
はじまりの誕生によって「私」が成立することで、ようやく「私と私以外(非私)とを分ける」ことが可能になったと考えます。
しかし、この段階で成立した「私」は、まだ「ワタシ」という言葉になっていません。言葉にならないと、「私とは何か」という問いも成立しないことになります。
そのためには、「脱毛革命」を経て、言葉が成立する必要があります。
下記の記事にことばの誕生について述べていますが、その説明はまだ不徹底であることを申し上げておきます。
「哲が句」を語る ことばの誕生|ego-saito (note.com)
また、記事の中では言及していませんが、この局面は、「私以外(非私)」の中でもとりわけ意味の大きい「私たち」が誕生する場面でもあります。

以上のような3段階を経て、「私とは何か」という問いがどのように成立しているのかについて、私なりに解き明かすことができました。
このように考えてくることで、「私とは何か」という問いを進める方向性がようやく見えたように思いました。
しかしながら、「私とは何か」という問いは、ご存じの通り、容易に答えの出せるものではありません。
やがて私は、「問い自体に問題がある」ということに気づきました。

「問い」について問うことを通して、その後私は「私とは何か」という問いの答えに至ることができたと、私なりに考えています。その過程で「私以外(非私)」が何であるかについても考えました。
ただ、それを述べるためには「問い」について考えた過程を説明する必要があるので、簡単ではありません。いつか説明できるときが来たら説明したいと思います。


以上のように、これまで私が述べてきた「宇宙史上の3革命」の話は、問いが成立するための、そして問いを問うための、基礎的な作業でした。
ですので、別の言い方をすると、それは私自身が本当に語りたいことそのものではありませんでした。
私は最初の記事で、「私は語る時がきた」と述べたように、自分の考えを語りたいと思いました。が、「語りたい」という気持ちが先走り、闇雲に語り始めた感があります。
「宇宙史上の3革命」の話は、私がこれまで考えてきた話の中で、割合にまとまりがよく、書きやすいだろうというのが主な理由で書き始めた感があります。
ですが、書いているうちに、どうやらこれが私の本当に語りたいことではないのではないか、という気持ちに襲われました。
それが、記事が途切れたことの主な理由です。
今回述べた「私とは何か」は、3革命よりは私自身の語りたいことに近いと感じました。ですが、本当に語りたいことはもっと別のことだと感じています。

ところで、「私とは何か」の答えについて、私の最初の記事「トライアル0 四角い世界」にヒントがあります。
その中で、世界は丸く言葉は四角いと書きました。
さて、「私」は丸いでしょうか、四角いでしょうか。
「哲が句」を語る トライアル0 四角い世界|ego-saito (note.com)

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