「哲が句」を語る 愛の革命(改題)

これまで述べてきた2つの「革命」は、他者にしろ生命にしろ、私たち人間が人間になるために決して欠かせないものを生み出したものでした。
「セックス革命」 他者の誕生|ego-saito|note
「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito|note

ただそれらは、私たち人間自身からはやや遠い話だったことも確かです。
いよいよ今回の「革命」は、私たち人間自身を生み出した、私たち自身に直結する話です。


類人猿のボノボは、かつてずいぶんテレビ等で取り上げられていたと思うが、最近はあまり聞かなくなった気がする。
2頭のボノボが同じ枝に向かい合ってぶら下がり、お互いの性器を擦り合う。そのようにして互いの気持ちを通わせる。直前まで喧嘩をしていた同士がその行為ですぐに和解する。その映像は強く印象に残っている。その映像ではメス同士だったと記憶している。
ボノボに限らず、多くの哺乳類はオスとメスが性器を擦り合わせて性交(交尾)を行い、互いに交歓・快感を通わしているように見える。
「生物」が自身の秩序を維持するために作った「おでき」、つまり生命個体(「哲が句」を語る 「はじまり」について② はじまりの誕生|ego-saito|note参照)に用務を課す見返りに用意したご褒美が、性交の快感なのかもしれない。
もっとも、生殖行為で快感を得るのは有性生殖をする生物のごく一部にすぎない。ほとんどの生き物は「おでき」に課せられた用務である生殖に向けて邁進し、生殖を遂げるとほどなく死を迎えるものも多い。
やがて生殖作業に対してインセンティブを与えた方が「生物」秩序の維持(生物の存続)にとって有利であったり確実性が増したりするという方向へ進化したのかもしれない。
生殖行為を促すために付与された快感が一歩進んだところにボノボがいる。そしてその先に我々人間がいる。

人間が野生から離陸して独自の進化を遂げるのに、何がより大きく寄与したか、ということがよく言われる。
直立二足歩行。それにより手が自由になり、道具を使うようになる。
あるいは、火を使って食べ物を加工することで、強靭なあごを持つ必要がなくなり、それが人間の脳の発達を可能にした。
そのような中で、現在の我々人間が持つ意識や精神が成立する上でとりわけ重要だったのは「脱毛」であったのではないか、そう考えている。

ペットの“毛もの”を撫でると柔らかな毛並みが気持ちいいし、撫でられたペットの方も気持ちよさそうに見える。だがそれは服の上から撫でている感覚だ。“毛もの”は「肌の触れ合い」というものを知らない。
素肌同士の直接の触れ合いは強烈な近さをもたらす。
この感覚は、人間が脱毛したときに初めて知った感覚だ。
“毛もの”は性器の一点で感じていた。
それを人間は、脱毛した全身の肌で、全的に感じるようになった。
性交における合一感は“毛もの”とは異次元の格別なものとなった。
素肌は第二の性器である

第一の革命で生まれた「他者」、第二の革命で生まれた「自分」。
その他者と自分が素肌で直に触れ合う。
「愛」の誕生である

愛は、相手をおもんぱかることを教える。
相手の心を知りたいと思う、知ろうとする。
それによって、人は人々になっていく。

性交と並んで肌の触れ合いが愛を育む重要な時点がある。
ヒトは、生まれてから長い間、親の庇護を受けなければ生き延びることができない。
その時、ヒトは親に抱かれる。親の素肌に抱かれる。
乳幼児期を生き延びた人間はすべて、肌のぬくもりという「愛」を受け止めている
その時に受け取った愛が、人の愛の原型である。

脱毛革命 愛の誕生

素肌は第二の性器である


(当初、「「哲が句」を語る 脱毛革命」と題して投稿しましたが、これまでに比べてヴューが増えませんでした。もしかしたら「脱毛革命」という言葉が、違和感とかまがまがしさまで感じさせてしまうのかもしれない、と気づくのに時間がかかりました。私としては人間が脱毛したことの重要さを伝えたかっただけなのですが。そこでもう少し取りつきやすい言い方にして再掲させていただくことにしました。)

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