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1995年自転車の旅|01|プロローグ

 もう30年近く前なんだな、と思う。
 1995年。元号で数えるなら平成7年。
 ぼくは一人、東京の片隅で、不安と鬱屈と楽観とその他もろもろの処理しきれない感情と状況を抱えながら、これといった人生の目的も持たないままその日その日を投げやりに暮らす、ちんけな若造だった。
 23歳。大学は卒業していた。細かいいきさつは省くけれど(もしかしたらこの先どこかで書くかもしれない)、生きることのトラップに自ら好んではまり込んだぼくは、いま振り返ってみても言い訳しようのない、世間知らずで自堕落極まりない毎日を送っていた。ビタ一文収入のない無職で、そのくせアルバイトもせず探しにも行かず、生活は親からの仕送り頼み。毎晩二時、三時まで悶々と眠れぬ夜を過ごし、朝は太陽が高く昇る時刻になってようやく万年床を抜け出る。
 食事は、具は鰹節、味付けは醤油とマヨネーズで炒めたスパゲッティをしょっちゅう食べた。ビタミンは近所のスーパーでセール品のトマトやパプリカを買い込んで補った。
 借りていた六畳一間のアパートは、台所と風呂・トイレは付いていたものの、外見も中身も時計の針を昭和の中ごろまで巻き戻したような趣で、薄い化粧板を貼り合わせた玄関扉など、力任せに殴りつけたらいとも簡単に破けるのではないかと思わせる安普請だった。だから、誰かが外階段をカンカンと音を立てながら上ってきて、廊下を横切って行く音が聞こえると、ぼくはそのたびに緊張で身構え、耳をそばだてつつ、気配がとなりの部屋に入って行くのを確かめては、ホッとひと息ついたものだ。
 不思議といえばとても不思議なのだが、そのアパートに住んでいるあいだ、ぼくはほかの部屋の住人と顔を合わせたことが一度もなかった。たぶん、彼ら彼女らは皆、それなりにきちんと働いていて、ぼくとは生活の時間帯がまったく合致しなかったのだろう。ぼくにとって、ほかの部屋の住人たちは、まるで幽霊みたいな存在だった。向こうからすれば、きっとぼくの方が幽霊だった。

 当時、ぼくがアパートで一番親しく接していた人間は、もしかしたら新聞の勧誘員だったかもしれない。彼らには本当に手を焼いた。こちらが頼んでもいないのに、前触れもなくふらりと現れては、あの手この手で購読を迫る。
 ある日、ドンドンと激しく扉を叩く音がするので、仕方なく立ち上がって返事をすると、扉の向こうから聞いたことのない男の声が返ってきた。
「いまさっき、すぐそこで交通事故を起こしてしまった。病院に連絡したいので電話を貸してほしい」
 どうしてぼくはドアを開けたのだろう。迂闊だった。携帯電話が普及する以前の話。万が一そういう事態もあり得るかもと、つい信じてしまったのだ。
 柱と扉の隙間から顔を覗かせたのは、パンチパーマと濃いサングラス姿できめている、半分ヤクザめいた中年男性だった。交通事故で緊急事態のはずが、手慣れた話術と押しの強さで、するすると別の用件に置き換わる。それからたっぷり1時間、ぼくとその男は、新聞を購読するかしないかで、延々と口論を繰り広げる羽目に陥った(最後には、これ以上は時間の無駄だと悟った相手が、憎々しげな表情で引き上げて行った)。
 また、ある夏の夕方のこと。開け放しにしておいた風呂場の窓から見知らぬ青年が声をかけてきて、やけに親しげな声色で、
「友人がのっぴきならない事情で借金を背負ってしまったんです。その返済のためにぼくが新聞の勧誘をして稼いでいるんです。何とか購読してもらえませんか」
 そう切々と訴えるのだった。このときは幸いにも、20分程度のやり取りでお帰りいただけたと記憶している。
 どちらも結局、首を縦に振らずに済んだとはいえ、どうにも油断のならない連中だった。だが、そんな彼らとて、一件でも多く契約を取ろうと必死で働いていたのは間違いない。

 両親や、学生時代の友人は、ぼくがいったいどんな生活を送っているか、かなり心配したらしい。それはそうだ。同じ立場にいれば、ぼくだって気が気でなかったろう。あるいは、
「あいつはもう終わったな」
 と、一方的に烙印を押していただろうか。
 で、当のぼく自身はどうだったかというと…。
 日々、自分の中でぐるぐる渦巻く何ものかを押しとどめるのに精一杯で、人の気持ちや思惑に考えを至らせる一分の余裕も持てないでいた。
 まったく、23歳にもなっておきながら、何と幼かったこと!


 なぜ自転車で旅をしようと決めたのか、理由はよく覚えていない。
 おそらく、これといった明確な理由はなかったのではないか。単純にそうした無謀な試みに自分を投げ出してみたかった。それだけのことではなかろうか。
 ぼくの情けない生きざまに業を煮やした両親から、
「福島に戻って就職しろ」
 とせっつかれ(本当に甘ったれだよね)、試験を受けてみたら思いがけず勤め先が決まったことも(よく採用してもらえたと思う)、ずっと内面ばかりを注視していた精神が外の世界へ向き直るための、ひとつのきっかけだったといえそうだ。
 ただし、福島に戻る、といったところで、それまで一度も福島に住んだ経験のなかったぼくには、さほど現実感が感じられなかったのも事実。小学生のころ、夏休みになると母の実家を訪ねて、泊まりがけで過ごしたのが唯一と呼んでよい縁だった。
 まあ、ともかくも、一生プータローを続けるわけにはいかない。この先どうにかして食べて行かなくてはいけないのだ。正直ぼくは、東京での生活に飽いていた。泥のような毎日を変えなくてはいけないこともわかっていた。
 当面の道筋が定まったことで、錆びついていたバネが変な方角にひょいと動いた。
 時間が余っているうちに、いましかできない旅に出よう。


 1995年10月10日火曜日。曇り。午前6時。
 事前に考えられるだけの支度をすべて調え、新宿区中落合のアパートを出発。
 …しようとした矢先、朝の散歩の最中と思しきお年寄りから声をかけられた。どこへ向かうつもりなのか、と。
「自転車で、鹿児島まで」
 語気に力が籠もる。何しろぼくは、これから一人きりで《すごい旅》に出かけようとしているのだ。
 ご老体は半信半疑の様子で、そのうえどういう心理なのか、口元に薄ら笑いを浮かべている。
 ぼくはふと思いついて、カメラを手渡し、写真を撮ってもらえないか頼んだ。
 旅のスタートを記録する写真が残るのは悪くない。この場所この時刻に偶然通りかかった人物がいるというのも、運といえば運だ。
「写真なんて撮ってどうするの?」
 老翁は、しぶしぶといった調子で、それでもシャッターボタンを押してくれた。
 後日、旅から帰ってきてフィルムを現像してみると、記念すべき1枚目は見事なピンぼけだった。オートフォーカスのカメラでここまでばっちりピンぼけの写真を撮るというのも、なかなか難しい技だと思う。

©Google Map

 昔々、一人の青年が自転車で旅した記憶と記録を、そのとき感じたこと・現在の視点で考え直したことなどと合わせて、不定期で連載します。
 それはまた、30年前の日本を垣間見るタイムスリップ旅行でもあると思っています(例えば、出発日の10月10日は、まだ日付が固定されている「体育の日」の祝日でした)。
 長旅になりますので、のんびりお付き合いいただけますと幸いです。


 旅の最中、毎日記録をつけ続けた手帳。
 これがなければ、こうして記事を書くこともままならなかった。
 偉いぞ、30年前の自分!

 お伴のカメラは「コニカ BIG mini」。正確には「BM-301」という型番で、BIG miniシリーズの3代目に当たる。
 防湿箱に仕舞っておいたのを引っ張り出して、試しに電池を入れてみたら、ちゃんと動いた!
 そのうち久しぶりにフィルムで撮ってみようか。

 驚いたことに使用説明書も発掘。
 あれ?
 これは2代目(BM-201)の説明書だ。
 ということは、自転車旅で活躍したカメラはBM-201君で、一度手放したあと、新たに3代目を購入したのかな(その辺り、記憶なし)。

 使用フィルムは不明。印画紙がAGFAアグファブランドなのは、現像とプリントを依頼したラボがたまたまそうだっただけで(街のあちこちに「同時プリント」を廉価で受け付けるお店があった時代)、確かコダックのお買い得品をまとめ買いして持って行ったはず。
 ネガが見当たらないため、この連載では、手元に残されているサービス判プリントをスマートフォンで再撮影して掲載する。


記事をまとめたマガジンはこちら。


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