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蟬【千返万歌〈第11回 〉】

 上原・若洲が返歌に挑戦! 一方の頭にふと浮かんだ短歌から、返歌の世界が始まります。そしてさらに、2首の世界から思い浮かんだ物語などをノールールで綴る企画です。第11回は若洲発・上原着。文章は上原の担当です。


千返万歌

本歌
男より女のほうが多いとき男は柳のようにゆらゆら   若洲至

↓ ↓ ↓

返歌
二丁目のいちばん端のスツールの彼の氷の太い結晶  上原温泉

*メモ✍
二丁目:ここでは新宿二丁目のことと思われる。ゲイバーなどが集まるエリアとして認知されている。

文章編:蟬

 ベランダにまた蟬の死骸が増えた。マンションの内見をした日、一匹めが転がっていた。幹線道路が近いこんな都心に!と少し嬉しくなり、その部屋に住むことにしたのだった。向かい側の中規模マンションは取り壊しの最中で、昼間は蟬が転がるベランダからの目線の先を人が動いている。たまに目が合う気がするのは私が目を合わせたいからだろう。

 私は今年60歳になる。賃貸物件への入居は、高齢の、ましてや独身の女にとってはハードルが高い。賃料の滞納、それ以上に孤独死を心配されて、オーナーに敬遠されるからだ。年齢のボーダーラインは「60から65歳ぐらいでしょうか」と、申し訳なさそうに担当の仲介業者は言った。私が入居を許されたのは、まだ誕生日前のぎりぎり59歳であったことが少しは幸いしたかもしれないし、何より隣町に、むかし夫だった人が残した瀟洒な家を持っていたからだった。「住むわけではないんです。仕事場として使うためです」と説明すると、その先は案外スムーズに進んで、以来、本来の家には帰っていない。

 今日は、遮光カーテンの取付業者が窓の寸法を測りに部屋まで来た。

「蟬がたくさん死んでますね」
「毎日増えるんですよ。うちのベランダばかりなぜかしら」
「あーカーテンが薄いから」

 引っ越して以来、サイズの合っていない古い綿のカーテンを仮にぶら下げていた。夜、外から窓を見上げると、確かにいつも私の部屋だけがやけに明るい。蟬たちが最後に目指したのはうちの光だったのか。業者が寸法を測り終えるのを待つ間、私は割り箸とポリエチレンの袋を持ってベランダに出ると、一匹ずつ割り箸で摘まんでは袋に回収した。カサっとして軽い、揚げ物のような感触。完成した遮光カーテンの取り付けは十日後と決まった。

 新居の最寄り駅は、東京のターミナル駅のひとつと地下鉄線で繋がっている。その日の夜、最終間際の電車に乗って、そのさらにひとつ向こうの駅で私は下りた。LGBTの人たちが集まるその一帯は、夜が深まると太陽が戻ってきたかのように楽しげになる。ゲイのタツヤがやっているベトナム料理店は、その端に位置する雑居ビルの一階にあった。

 「いらっしゃい、彼女さん」

タツヤはいつも私に丁寧だ。決して敬語を崩さない。私に名前を尋ねないし、私も名乗らない。

「こんばんは。ジントニックください。あと生春巻」

 夕食はとっくに済ませていたから本当は何も食べたくないのだが、タツヤのために、夜中に食べても胃が重くならない生春巻をオーダーする。タツヤの生春巻は、ライスペーパーのもっちりとした戻し具合、新鮮な野菜、砕いたピーナッツの量、ヌクチャムの調合、すべてが完璧だ。運ばれてきたらせっかくの風味が変わらないようひと息で平らげる。あとはゆっくりとジントニックで時間を稼ぐだけだ。タツヤは客との距離感の保ち方も完璧で、私を楽な気分のまま一人にしてくれている。

 初めてタツヤの店にふらりと入った夜、彼は隣のテーブルの椅子を私たちの席まで引っ張ってきて、いつまでも話を止めなかった。

「お二人が夫婦じゃないのはわかりました」
「えーなぜ?」
「雰囲気で何となくわかります。彼氏さん、名前は?」
「ムトウ」
「下の名前は?」
「ツヨシ」
「ツヨシさんは、さっきから僕の目を見ないですね」
「そお?」
「ツヨシさんは、この界隈で間違いなくモテますよ」
「ふーん」

 ツヨシは私の知る限り、彼以上はいないと言い切れる女好きだ。しかしなぜかゲイに好かれることも私は知っている。タツヤが、十分過ぎるほどの気を私に遣いながら、それでもツヨシに惹かれていく様子を見守るのはおかしな気分だった。以来、ツヨシは一人でタツヤの店に通うようになり、たまにこうしてツヨシの仕事が終わるまで、私を呼んで待たせることもあった。タツヤは私を「彼女さん」と呼び続けた。

 もしも子どもが生まれていたら。私もツヨシも変わらざるを得なかっただろう。こういうのを何と呼ぶのだっけ。あぁ。割れ鍋に綴じ蓋。それよりもあと十日は蟬拾いかぁと急に思い出してしまう。

 タツヤが揚げ春巻を作り始める。ツヨシの好物だ。タツヤの店は照明が明るくて、大きなガラス窓から放たれた光が周囲の小暗い店舗を照らしている。深夜一時。そろそろ私の男がやって来る。

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