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歯医者と同級生の彼女と。

昔のこと、あの頃はまだ二十歳だっただろうか?近くの歯医者にたまたま行ったら、その歯医者で働いている彼女がいた。高校の頃の同級生だった彼女だ。約3年ぶりだというのに、随分と彼女はきれいになっていて、とても驚いた思い出がある。

彼女は小学4年生の頃に、私の町の学校に転校して来た女の子だった。とてもおとなしくて、おさげの髪がとてもかわいくてそして背のちっちゃな子だった。

確か中学、高校と、ずっと一緒だったのだけど、それまでほとんど話をしたことはなかった。ただ、高校のときに僕はテニス部に入って彼女は女子テニス部に入って、それで少し話を交わすきっかけがあったという程度だった。

もちろん、お互いに特別な感情はそこにはなくてただ、そのまま卒業していった、ただの同級生だったな・・・とそんなふうに私はあの頃を思い出していた。

僕は気づかないふりを決め込んでいたのだけど、彼女は僕に気付くと、少しだけ微笑んでくれた。僕はその微笑がとてもうれしくて、同時にどうしていいかわからなくて、今にして思えばぎこちない笑顔を彼女に作ってしまったかもしれない。

助手をしていた彼女は、僕が治療の席に座ると最初は事務的に症状とかを聞いていたのだけど、そのうち僕の耳元で「久しぶりね」って、ささやいてきた。その言い方というか声が、とてもやわらかくて気付けば「うん、そうだね」と自然にそんな言葉が出ていた。

そんな自分に驚いてしまった。普段なら、口下手で何も言えない自分なのに、彼女のその柔らかな笑顔が、僕の気持ちをほぐしてくれたんだろう。彼女の顔が僕に近づく。もちろん、僕の口の中を見るためなんだけど、ほんの少し、いい香りがして、身動きできない僕はまるで、思春期の少年のような気持ちだった。

それから彼女といろんな話をした。あの子はもう、どこどこに勤めているとか、あの子は来年結婚するとか、そんなかつての同級生のことを、ふたりして楽しく話した。でも、やがてそこに若い男性の医師がやってきた。あぁ、なんだかまだ話し足りないなぁ…なんて思ったけど、診察台の上じゃしかたない。僕は黙って天井を見上げた。

彼女が「先生、お願いします」と小さくその男性医師に言うとその医師は僕の口の中に、蚊が一斉に鳴くようなあのドリルで歯を削り始めた。すると、僕に麻酔が効いてるはずなのに、なぜか痛くて不思議に思ってたら、その医師の指が僕の口を思いっ切りつねってるというか、あきらかに不要な力がそこに込められていた。

そういえばさっき、彼女と僕が楽しく会話してるところをこの若い医師は見てたなぁと思い出し、「あぁ、そういうことかぁ」と心の中で納得した。

治療が終わると彼女は僕の耳元で「痛かったでしょ?ごめんね。いつもはこんなじゃないんだけど」と謝っていた。

それから、何度か治療をしたけれど、たまたま彼女の担当じゃないときで最後に偶然待合室で会って、少し笑顔を交わしただけだった。

本当はもっと話をしたかったのだけど、あの頃みたいに、いつまでも時は同じ場所に、居させてはくれないみたいだった。

思えばもっと、あの頃に、彼女とあんなふうに話せたなら、また違う時がそこに流れていたのかもしれない…なんて、後悔じゃないけれど、なんとなくそんな気がした。

それにしても、随分と遠い過去の思い出。いろんなこと考えているうちに、偶然記憶に引っかかった。こんな想いも少しづつ、心から消えてゆくんだろう。

今はまだ、ここにあることを、そのまま素直に感謝したい。もうすでに消えて行った想い出たちもそのままに。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一