ひとり泣ける場所。

私は風呂場が大好きだ。
あの孤立した空間の中で、少し熱い湯船につかり、ほんのささやかな幸せに包まれながら、「あー」なんて唸れる場所。そこは唯一、本来の自分に帰れる大切なオアシスのように思う。

最近は、忙しさも手伝ってか、シャワーで済ますことが増えてしまったけれど、公休日には、自ら進んで風呂掃除をし、鼻歌まじりにお湯を溜めてるから自分でも笑ってしまう。

風呂場は、私の心でさえ、裸にしてくれる場所なんだ。でも・・・かつての私にとって風呂場は、もうひとつの顔があった。

随分と昔の話になるけれど、まだ私が大学生だった頃、下宿先の風呂場で私はよくひとりきり、泣いていたことがあった。あの頃、私は、いろんな問題を抱えていて、それが単純にただ哀しくて、いろんな意味で私は風呂場で”泣く”ことをしていた。風呂場は私にとって、泣くために用意されたもうひとつの場所でもあった。

私は”泣く”ことは、人間の一番わがままな行為じゃないだろうか?と思うことがある。誰かの前で泣いてしまうと、その人も巻き込んで不幸を増やしてしまうような気がするから。もちろん、哀しみの理由は様々だし、それによって笑顔に戻れることもあるかもしれないけれど、人生はあまりドラマのよう行くことはない。

だから人はひとりきりで泣いてしまう・・・そんな悲しい生き物。”泣く”というわがままな行為に、何の罪のないティッシュやハンカチを濡らすことさえも、私にはなんだか悪いような気がする。

だからと言うわけでもないけれど、私は泣きたい夜にはひとり、風呂場で泣くことをしていた。あたたかな湯舟の中に零れ落ちる涙は、喜んでくれているような気さえした。何も濡らすこともなく、涙はまた、同じ水の中へと帰ってゆけるのだから。

あの頃、下宿先の風呂場は、共同風呂だった。まるでくたびれた町の小さな大衆浴場みたいで、所々タイルも欠けてて、脱衣所の扇風機も壊れていたけど、私はよく、深夜になると誰もいない湯船につかっては物思いにふけっていた。

あの頃、私は何をひとり、想っていたのかうまくは思い出せない。でも、湯煙の中、風呂場から見える小さな窓から四角く区切られた小宇宙をひとり、じっと見つめていたのを覚えている。

宇宙を眺めているだけで、自然に涙がこぼれていた。それと同時に、きらめくきれいな星たちが目の前で、にじんではポロリと落ちていった。その時に自分が抱えていた様々なものたち・・”悩み、哀しみ、苦しみ、切なさ”・・そんないろんなものが、ごっちゃになって、それが簡単に涙になっていった。

時折、天井から冷たい雫がポチャリと落ちてきて、まるで、私のために泣いてくれているような気がして・・・また、私はいっそう泣くという始末だった。

泣けるだけ思いっきり泣くと、なぜかすっきりとした気持になった。涙の流れる量なんて、たかが知れたものだけど、抱えたものがすべて流れ出て、軽くなったような・・・そんな気がした。

あの頃、”大学を中退しよう”・・・そう心に決めたのも、四角い宇宙を、涙と一緒に眺めていた時だったと思う。その決断が正しかったのかどうかは、今も私はわからないけど、こうして家族の寝顔を見ていると(いろんな不安はあるにしても)確かな幸せを感じている。

風呂場は私の唯一、泣ける場所。裸になった心のままで、誰にも邪魔されず母親の体内で守られていた胎児のような安らぎの中で・・・。

今ではあの頃のように、すっかり泣けなくなってしまった自分が、少しだけ寂しく思うけど、何も涙は哀しい時だけに流れるものとは限らない。忘れた頃に泣いてみるのも、私は必要なんじゃないかと思う。

久しぶりに、ひとり、泣いてみるか・・・なんて思ったけど、小さな息子が、仮面ライダーの人形を抱えてうれしそうに「お父さん、一緒にお風呂入ろうよ!」なんて大きな声で誘ってる。

そんなあの頃を思い出して、ひとり微笑む私がいた。

あぁ、そうか・・・
もしかしたら私はもう、
風呂場で泣く必要がないのかもしれない。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一