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大きな不幸と小さな幸せと。

当たり前のことを、当たり前のことと、あまりにも単純に受け止めすぎて、その当たり前さに気づかないでいることが、時として私たちには、ある、と思う。

「幸せ」とは何だろうか?と思うとき、お金がたくさんあること、健康であること、地位があること。そういうことを、まず、人は思い浮べるかもしれない。けれども、それだけが本当の「幸せではない」ということを誰もが(たぶん)漠然とわかっている。

わかっているけれど、日々のこの暮らしの中で私達はたくさんのお金を得たいと思うし、少しでも無駄にお金を減らしたくないとも思う。そして、自らの地位を上げ、より多くのお金を得たいと願う。

それが本当の幸せではないと、心では思っていても。

昔、被災地へ、億単位の多額のお金を、匿名で寄付されたニュースを見たとき、そのある意味での”当たり前さに”私は気付かされた思いがした。何もそれは、その行為そのものが、”当たり前なこと”という意味ではない。うまく言葉では言えないのだけど、それはもっと大切な当たり前な何かだ。

本音で言えば、その行為は、”なんて損なことを”と、そう思うものなのかもしれない。でもそれは、その当たり前さを忘れている証拠なのだろう。その匿名の方の真意を、私は知り得ることはできないので、あくまでもこれは、想像に過ぎないけれど、その行動で、その匿名の方は、きっと、損をしたのではなくて、価値あるものを、目に見えない何かから、心にもらい受けることが出来たのだと思う。それは私達の想像を、はるかに超えた何かだろう。

つまりは本当の幸せを、結果的にその方は得たのだと思う。もちろん、それが最初からの目的ではなかっただろう。苦しんでいる人達を思うあまりに、少しでも幸せにしてあげたいという気持ちが、思いがけなく自分へも”幸せなもの”として帰ってきたのだと思う。それは与えることで与えられるという、いつしか心が忘れている、”当たり前なこと”なのだと思う。

たくさんのお金を持っている人が、幸せかといえば、そうとは限らない。名誉や地位を持っている人が、幸せかといえばそうとも限らない。その大切なものを守るあまりに、多くの幸せを失っていることがある。新聞を広げれば、いつだって、その事実は確認できる。

神という存在があるのだとすれば、神は多すぎるものを決して好まないようだ。人にはいろんな欲があるけれど、ほとんどの場合、満たされればそれ以上を望まないようになっている。(それは食欲とかが、そうだろう。)

しかし、人が作ったものの欲望は、満たされることが決してない。それは先ほどの、お金であったり、地位であったりと様々だ。いくらお金を得たとしても、人は、”もう十分だ”とはなかなか思えない。いくら地位を得たとしても、人は、”もう十分だ”とはなかなか思えない。

そこから人の不幸が始まる。(その欲望に正しい夢があるなら別だろう。)

一昔前に比べれば、人はいろんな便利なものや、豊かな生活に、恵まれているというのに、どうしてこんなにも自殺者がいるのか?どうしてこんなにも苦しく思うのか?どうして生活は楽にはならないのか?

豊かさを得ることと同時に、不幸せを人は得てしまった。それは多すぎるお金を得ることで、本当の不幸に気づかなくなったように。当たり前のことを、当たり前のこととして、わかっていながら人はいつしか、本当の幸せを理解しなくなってしまった。

今更、質素な生活に戻ろうなどと、偽善者のごとく言いたいのではないし、それが現実的だとも思ってもいない。人の作り上げたものが、決して不幸なのではなくて、人の作り上げた果てのない欲が、不幸なのだと私は思う。

果てのない欲望を、もう心は必要としない。
本当に満たされた心は、たとえ、かたちは
満たされなくても、決して多くを望んだりしない。

それが本当の”幸せな心”なのだと
私はただ、思うのだ。

それはただ、当たり前を、当たり前なこととして。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一