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年老いたまあるい背中

時というものはこんなふうに一瞬にして、過去へ飛び越えて行くのだなぁと思った。突然に、肩を叩かれ振り返ったとき、そこにはとても懐かしい笑顔があった。

実に15年ぶりの再会だった。かつての私の上司だった人だ。今はもう、この仕事を辞められていたのだけど、照れくさそうに出してくれた名刺の中の”部長”という肩書きがそれまでの苦労を、そっと私に教えてくれているような気がした。

あの頃、私はこの人が恐かった。それはもう毎日が緊張の連続だった。まだ新入社員だった当時の私は、仕事の要領がとても悪く、いつも同じ失敗ばかり繰返すのだった。その度に、私はその人(上司)に大声で叱られていた。時には足も出ていたように思う。今思ってみただけでも、簡単に手に汗がにじみそうになる。

あの頃、こんなことがあったのを思い出した。当時、電器売場の店員をしていた私は、お客さんからテレビが映らないというクレームの電話があり「すぐに家まで来い!」とひどく怒鳴られた。私はすっ飛んでお客さんの家まで行った。最初は配線関係か初期設定が悪いんじゃないか?と思っていたのだけど、どうもただ単純に、テレビの故障のようだった。

私はすぐに店に戻り修理サービスにその事情を電話で説明した。「・・・ということで、すいませんがお客さんのところへ、すぐに修理に行って欲しいのですが」実に腰の低い情けないような声で私は言ったのだけど修理のサービスマンはこう私に言ったのだ。

「すぐって言ったって、そんなの無理だよ。もう、明日になるんじゃないかなぁ・・・」

それはまるで他人の事のようにとてもいい加減な言葉だった。お客さんから、かなり怒鳴られた私はつい、すぐに修理サービスから伺わせますって、勝手に約束をしてしまったのだった。

どうしよう・・・たった今すぐ逃げ出したい気持だった。こんな失敗を、また上司に言ったらひどく叱られてしまう。そんなふうに私が半分泣きそうになっていると、タイミングよく上司が私のところにやって来て「テレビの件はどうなった?」と私に聞いてきたのだった。

それは最悪としか言いようがなかった。でも、私は覚悟を決め正直に話した。また叱られると思った。「お前が責任を取って直せ!」って言われるんじゃないかとも思った。私の説明を聞くと、なぜか上司はすぐに電話の受話器を取った。まるでそれは救急車でも呼ぶかのような早さだった。その上司の意外な行動に、私はワケもわからずに何か不思議なものを見るような思いでポカンと見ていた。

上司は受話器に向かって叫んでいた。

「お前らはなめとるのか!テレビが壊れてお客が困っているのがわからんのか!オレの部下の懸命さを、お前らはどう思っているんだ!」(そのあとも、かなりひどい事を言っていたのだけど、まぁ、これくらいにしておく。)

つまり、上司は私を叱ることもなく、すぐに修理サービスに電話してくれたのだった。そのおかげというか結果的には、サービスマンがすぐに動いてくれてクレームはあっさりと解決したのだった。

その言葉は、決していいものとは言えなかったけれど、私にとってははじめてこの方の本当のやさしさを知り、うれしくって泣きそうになったのだった。あの時のあの人の懸命さが今も熱く私に蘇ってくる。

・・・でも、目の前のあの人はもう、そんな熱いものは感じられなかった。どこかまぁるい感じになっていた。なぜだろう。うれしいはずなのに、心がどこかしゅんとなっていた。この方のやさしい笑顔を、私は15年目にしてはじめて見たような気がして心はどこまでもあたたかくなっていった。

「もう、結婚をしているのか?」

どうやら私の結婚指輪が目に入ったようだ。あの人の驚いた顔が、とても可笑しかった。それだけ時は、流れて行ったということなのだろう。お互いの、どうでもいいような近況を少し話すとなぜかもう、私たちには何も話す事がなくなってしまった。

わずかな沈黙が、なんとなくもの哀しくて、時の隔たりはこんなふうにして、まるでそれは橋のない川のようで、見えるのにもう、どこか届かないような・・・そんな気がした。

短い別れの言葉のあとで、その人の背中がだんだん私から離れて行った。それはもう年老いた、切なくてまるい背中だった。

私は深くお辞儀をした。
かつての私の一番恐かったあの人に
心から、感謝を込めて・・・。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一