見出し画像

あきらめること。許すこと。

なんとなく、誰かのいやーな言葉に、なんとなく、私はいやーな気持ちになって、そして、そのいやーな気持ちが、誰かをいやーな気持ちにしてたことを思いがけず、その誰かの温度をなくした言葉の中に私は思い知る。

だんだん、くらーい気持ちになって、だんだん胸から込み上げるような熱いものが私に生まれて、やがてそれは、ひとつの大きな真っ黒な心になった。

思い知らせてやりたいような気持ち。衝動。そしてそれを、打ち消したいとあせる気持ち。ふたつの気持ちが互いにぶつかり合って、それぞれの言い分をそれぞれの想いを、言いたいことを言い合って、そして互いにケンカしている。つまらないからやめなさいと、心の中の私がなだめてる。

私はふと考えていた。誰かに傷つけられたとか、誰かを憎むような想いとか、そんなやっかいな心の前に、私自身は、一体何が出来るのだろうかと。

接するという仕事の中で、私はひとつの不確かな答えを心に抱いていた。それはあまりにも愚か過ぎて、私はこれまで、はっきりと誰にも言ったこともない。だから私は、いつも心の中で思ってた。

それは”あきらめる”という想いそのものではないのだろうかと。

”あきらめる”とは、何かを投げ出すことではなく、弱さに嘆くことでもない。ましてや、みじめに泣くことでもなく肩を落として、ただ、立ち止まることでもないと私は思う。

”あきらめる”とはきっと、”許す”ことなのだと私は思う。

もちろんそれは、完全なイコールじゃないし、根本的に間違っているのかもしれない。でも、”あきらめる”の言葉の中には、木の根のような細い筋がいくつもあって、それは必ず”許す”という言葉に繋がっているのではないかと、私は密かに思っている。

許すことから生まれる心は、きっと正しいものだと私は心のどこかで信じている。いや、心がそれを願っている。

傷つけられて、憎しみだけがどうにも止まらないようなとき。私はふと、立ち止まり、そして大きくため息をついて、そっと、心に言い聞かせてみる。

”あきらめる”、というそのことを。

すると不思議なことに心は、長いトンネルから出たときのように、明るい視界が開けてくる。見えなかったものが、やがて心に見えてくる。

それは誰かのことを、その言葉を、許した瞬間なのだと思う。

”許す”とは自分自身との果てのない戦いだ。憎むべき相手を倒すことのほうが、たぶん、たやすく心も一時、開放される。でも、そこから生まれる憎しみは、やがて誰にも止められなくなる。

いわば、一種の麻薬のようなものだ。
一時の快感。その後に続く永遠の苦しみ。

自分の心と戦う心は、きっと大きな意義がある。許すことより許せないことのほうが、私達の心のほとんどを占めてる。その度に、心はどこか泣いている。これは自分じゃないんだと、どこか偽ってごまかしてる。

そんな自分を私はそろそろ終わりにしたいと思っている。大切なことは、誰かに勝つことじゃなくて、許す勇気を心に持つこと。あえて負けてみる人生も、私は構わないのだと思う。

もちろん、あきらめないことも、時として大切だろう。頑張って戦い抜いて、勝ち取る勇気も必要だ。けれども、いつか心が立ち止まるときがやってくる。あきらめるときが必要となる。そのとき自分を誰かのことを、許すそのことが、この人生の大きな試練となる。その日は必ずやってくるのだ。

願わくば、私のこれからの人生は、ただ、そのことを心に持ち続けていたい。愚かな戦いに何も意味なんてものはない。けれども心の中の戦いは、澄んだ子供の涙のように、哀しみを哀しみとして受け止めて、そして、同じように、それを誰かと感じあえる。そんな確かな意味がある。

そこから人の優しさは、きっと生まれるのだと思う。人の哀しみも、そのつらさも、自分のことのように受け止めながら。

生まれる憎しみ。生まれる優しさ。
許せない気持ち。許す気持ち。

今はただ、あきらめる。
今はただ、許してゆく。

それは自分の心の中の、憎しみと戦うために。
それは涙で震える気持ちを、明日の勇気に変えるために。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一