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あの頃に残したバス運賃。

遠い昔のこと、私は大学生になって、はじめて一人暮らしをした。
あの頃、日曜日になると、ひとりで街に出かけては、気ままに街を歩いていた。同じ下宿先には、友達はいたけれど、みんなバイクを持っていて、いつもどこかに遊びに行ってた。

私はバイクなんてまったく興味はなかったし、日曜日と言うのに、その下宿では、いつも私一人だった。ひとりきり、部屋にいても仕方ないので、日曜日の朝は、共同で使っていた外にある洗濯機を回して洗濯物を干して、暇を持て余して・・・なんてことで、結局、街へ行ってぶらぶらしていた。

本当に、あの頃はいくらでも時間があった。今思えば、あんなこと?も、こんなこと?も、もっとすればよかったのに・・・なんてあの頃の私に言いたくなる。

下宿先のアパートは、街から離れたところにあった。原付バイクすら持っていなかった私は、街までゆっくり歩いて行ったり、しんどい時は自転車で行ったり、お金に余裕のあるときは、バスを利用したりして、街までひとり、遊びに行ってた。

ある日の日曜日のこと、暇だった私はいつものように、街までぶらりと歩いて行った。公園で昼寝して、知らない子供達と遊んだりして、知らないうちに日が暮れて、夕闇の中、ウソみたいに静まり返った公園を後にした。

街が暗くなってきた。私はバスで帰ろうと思った。

運賃は片道120円程度だっただろうか?バスに揺られながら、やがてバス停に着いて降りようとしたとき、財布の中に小銭がまったくないことに、私は気が付いた。

まだ、学生だった私は気が動転した。どうしよう・・・。財布にはちょうど、家から仕送りでもらったばかりの1万円札が1枚あった。1万円札じゃ両替も出来ないし。私は後に並んでいた降りる人達を先に譲って、とてもあせりながら、また、本当に申し訳ない気持でそのバスの運転手さんにこう言った。

「あのう、今、1万円札しかないんですけど・・・」

そんな不安な私の気持をくんでか、その運転手さんは実に明るく私にこう言ってくれたのだ。

「あぁ、そうか。それじゃあ今日はもういいよ。また今度乗ってくれたときに払ってもらったらいいから」

まだ若かった私は「じゃ、そうします!」なんてとても単純に喜んで、そのバスを降りたのだった。”よし、今度乗ったときは、ちゃんと返せばいいや”とその時、簡単に思っただけだった。いまじゃ、いろいろとあれだろうけど、田舎のバス路線だったこともあり、実にゆるい時代だった。

その数日後、私はその運賃を払おうと思って、またそのバスに乗った。でも運転手が、あのおじさんじゃなかった。まぁ、あのおじさんじゃなくても、ちゃんと説明をして払えばいいや、と思ったのだけど、何も知らないおじさんにイチから説明したとしても、ちゃんとわかってもらえるかどうか心配だったし、もしかしたら、私はもちろんのこと、あの許してくれたおじさんも叱られるかも知れないし・・・。

そう思うと、あのおじさん以外、私はお金を返すことが出来なくなった。それはまだ若かった私の浅はかな考えだった。そうして、いつか、いつか必ずと、思っているうちに、私はとうとう約束を果たすこともなく、いつしか大学を辞めてしまった。

本当にどうしようもなかった私は、下宿の友達にさえ、ひとことも言わないで、逃げるようにその街を離れた。そのときは運賃のことなんて、たぶん私は忘れてた。”また今度”というあの約束さえも、私は裏切ったままだった。

私はその大学に対して、いろいろと理由があって嫌だったけど、あの街は好きだった。そして、あの街の人達も、友達も・・・。あの街には、いつも陽だまりのような笑顔があった。あの頃の私の数少ない思い出は、いつもあの場所にあった。

あの街を、あんなふうに去ってしまったことが、今でも私の心残りになっている。今住んでいる場所からは随分と遠いけれど、私は死ぬまでにもう1度だけ、あの街へ行きたいと思っている。あの頃みたいに、あの公園に行って、木漏れ日の中で昼寝して、知らない子供達と遊んで、夕方になったら、またあのバスに乗って、どこかへと帰ってゆく。

ひとつ、ひとつ、想い出を心の中で巡りながら。それは簡単なようで簡単ではない、私の小さな夢かもしれない。”また今度”の、約束を果たすためにも、たとえ夢で終わったとしても、いつかきっと、あのバス停で私は降りてゆく。

わざと最後に急ぎながら、料金箱にじゃらじゃらと、うっかり余分に120円を入れて、夕闇の中、駆けてゆく。

そうしてはじめてその街に、あのおじさんに
私はしっかりと告げるのだ。

「ありがとう、さようなら」と。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一