一枚の終わらない春

著書「それでもお客様は神様ですか?電器売場店員のクレーム日記」未掲載エッセイ。あの頃の私のとても大切な想い出のひとつです。

ほんの少し前のこと、臨時の短期アルバイトがやって来た。新入学需要のピークとか、いろんな忙しさが重なったのがその理由だった。

「田代(仮名)です。よろしくお願いします」
正直言って、最初、私は戸惑っていた。

彼は50代の男性だった。大きく見下ろすほど背は低く、お腹は出ていて、脂ぎった髪は薄く、趣味の悪い黒縁メガネとガタガタに乱れた歯並び…しゃべる度に、息も少しくさい。

もしも警察に「この人、ストーカーなんです!」って若い女性が言ったならなんの疑いもなく、警官は捕まえてしまうんじゃないかと思う。

それでもそんな彼を見てると、ちょっと微笑んでるだけなのに、ほんわかと心が癒されてゆくようで、まるでかわいいアニメキャラのように、どこか憎めないオーラが漂ってた。

一体なんなんだこの人は?私にとって、その第一印象はとても最悪であり、不思議なものだった。

”ちょっと気持悪いわ!なんか変なおじさん!”とか”気が付いたら後ろに立っていたのよ!”とか、その理解できない存在からパートさんからのクレームは絶えなかった。

でも、それはあくまで見た目だけの問題で、しかも、実際に何か迷惑をかけてるわけじゃない。それどころか要領は少々悪いにしても、仕事はとてもまじめな人だった。

大量に入荷してくる商品の売場補充が彼の主な仕事だった。ある日のこと、パートさんが、彼をカミナリのように叱っていた。

「ちょっと、田代さん、この商品はこの場所じゃないでしょ!こんな間違いをすると、私達がお客さんに叱られるのよ!いい加減なことしないでよね!まったくもう!」

彼女の機嫌が悪かったのか、それとも日頃のストレスがピークに達したのか、まだ、あまり慣れていない田代さんにとって、それは言い過ぎと言うものだった。

それでも田代さんは、ニコニコ笑って”すみません”と自分の娘くらいのパートさんに謝っている。そう言えばあの頃は、いつも田代さんは、そんなふうによく叱られながらも、あの笑顔をずっと絶やさず、ペコペコと謝っていたような気がする。どうしてだろう?そんな彼を見るたびに、私は哀しい気持になった。

いっそ怒ってしまえばいいのに…
いつもそう、心に思っていた。

・・・・・

「こんなものを持って来ました。
よろしかったら売場で使ってください」

田代さんがそんなふうに、私に話しかけてきたのは、それがはじめてのことだった。「え?なんですか?」私がそう尋ねると彼は少々照れながらも、ポケットから一枚の写真を取り出した。デジタルカメラできれいに撮られた、一面に咲いた菜の花の写真だった。

「へぇ、これ田代さんが撮ったんですか?」

「えぇ、僕、こういうの好きなんです」

そう言う彼の目は、少年のように輝いていた。そういえば、いつだったかデジタルカメラの売場を田代さんが、何気なくじっと眺めていたのを思い出した。こんな私達なのに、それでも自分に出来ることを考えてくれていたのだろうか?見かけは全然ダメなのに、心はこんなにもきれいだなんて。

「ありがとう。早速、デジタルカメラの売場に見本写真として飾りますね」そう言うと、彼はまるで子供のように明るい笑顔で喜んでいた。

それから翌日になっても田代さんは、もう二度と売場に来ることはなかった。うっかりしていた。短期アルバイトだった彼は、その日が最後の出勤日だったのだ。忙しさに忘れていたなんて。なんの言葉も、誰からも贈っていないというのに。

田代さんはきっと、みんなから嫌われていることを知っていて、それで挨拶もしないままに、いつものように「お先に失礼します」としか、私達に言えなかったのだろう。

あぁ、そうだ。まるで小学生の頃、転校してきた男の子と、やっと仲良しになれた時に限って、また転校してしまい数日後に届いた彼からの手紙に、クラスの誰かが泣いていたような…

田代さんのやさしさは
たぶんあの時の切なさに似ている。

今思うと、なんて寂しい思いをさせてしまったのだろうかと悔やまれる。もっとたくさん話をすれば良かった。もっとやさしくしてあげればよかった。たぶん、彼からいろいろと学ぶべき事があった。

この大切な人生において…。

「あら、とてもきれいな写真ね、どうしたのこれ?」

パートさんが、田代さんの写真を見て、感心したように私に言う。私は答えず、ただ、小さく微笑んでいた。あの日、田代さんがそうしたように…。

今も売場には、ただ一枚だけ
終わらない春が飾られている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一