見出し画像

心、空いたもの。

最近、空白な時が流れている、と思うことがある。
なんだろう?この切なさはいったい・・・。

仕事をしていても、誰かと笑っていても、いろいろと考えていても、目の前に、ポッカリと空いたものが私を包んでいるみたいで、どうにも心、虚しくしている。

まるで、大きなシャボン玉の中に入ってしまったみたいだ。まわりがゆがんでぼやけて見えて、はっきり見ようと手を差し伸べたなら、そこでパチンとはじけてしまい、すべてを台無しにしてしまいそうな・・・そんな気がして、いつも何かにためらうような私がそこにいる。

・・・・

私がまだ、電器売場店員だった頃、液晶テレビをお買い求め頂いたお客様がいらっしゃった。70代くらいのおばあさんで、背中が丸くとても小柄な人だった。

テレビを返品したいのだという。

金額は20万円近くもする。まだ配達はされる前だったから、使用されているわけではなかったけど、いきなり20万円もの売上のマイナスは、思わず悲鳴を上げたくなるものだ。

当然、私はその理由を聞いてみた。おばあさんはうつむきかげんで私の目を見ずに、そっと答えた。

「主人の為に買ったのですが、昨日、退院するつもりが、急に具合が悪くなって、また長く入院することになりまして・・・」

おばあさんの言葉が、力を失ったみたいにそこで終わった。私は次の言葉を待ったが、沈黙が苦しく感じるばかりだった。

そのおばあさんの年齢からして、ご主人もかなり高齢なのだろう。液晶テレビは、おばあさんにとっての、最後のプレゼントだったのかもしれない。

「せっかくいいものを買われたのですから、キャンセルなさらずに、そのままお使い頂いたらいかがですか・・・」

丁寧な言葉のようでいて心では、”勘弁してくれよ!”と私はひどくつぶやいていた。売上のことしか頭になかった。

さっきからおばあさんは、「本当に申し訳ございません」と言葉をつまらせ、何度も私に頭を下げてる。白髪が、少しだけ乱れても直そうともせずに、両手は前に組まれている。少しやつれたその頬は、歳のせいではないような気がした。

「たぶん、主人はもうテレビを
見ることはないのだと思います・・・」

かすれた声は、私にただ、その意味だけを伝えていた。
とても後悔した・・・哀しくらいに。

私があんなふうに引き止めなければ、私はその意味を知らなくて済んだのに、おばあさんにあんな言葉を、言わせなくて済んだのに。私はただ、成す術もなく、心の震えは止まる術を知らなかった。

その日の夕方のこと・・・

”どうして急に売上が落ちたんだ!”と店長から電話でひどく叱られる。”作り話じゃなかったのか?キャンセルをどうして食いとめなかったんだ!”とその嫌味な声は、だんだん悲鳴に近くなる。

私は多くを語らなかった。騙されたならそのほうがいい。お金を騙し取られたわけじゃない。ただ、売上がちょっと減っただけだ。本当の哀しみは、そんなもので、消えてはゆくことはないのだろう。

”なんとかその分、売上を作ります”とだけ私は言う。何かあてがあるわけでもなかった。私のほうこそ、作り話なのだ。

電話を切ると目の前に、あのポッカリ空いた空白な時が私の周りを包んでいた。そっと手を、差し伸べてみる。

私はまた大切な何かを
台無しにしようとしている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一