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彼女の病んだ心

そのパートの若い彼女が、突然に変になり始めたことを、私はすぐには気がつかなかった。

「あの娘、最近、化粧が変わったわね」

ある日、私はレジのおばさんに耳打ちされた。その言葉には、どこか嫌味と言うか、少し意地悪な皮肉が込められていたように思う。

確かに彼女の化粧が変わっていた。はっきり言って普通じゃなかった。なんて言ったらいいのだろう?まるでその白いファンデーションがなぜか血の気の失せた死人のように見えた。いや、というより、彼女の無くした表情が、そのように見せていたのかもしれない。

もともとあまりしゃべらない彼女だったが、仕事はきちんとこなしていた。時間を秒単位に考えているような人・・・と言ったほうがスッキリと当てはまる。

それは几帳面過ぎて、何か窮屈に感じるほどだった。時々ではあるけれど、たまに見せる彼女の笑顔は、何か秘密にしていた大切なものを、思いがけず見たような気がして、私はどこか微笑ましく思っていた。

しかし、ある日突然に彼女は急に無表情になり、そして、無口になってしまった。何か人間関係にでも悩んでいるのだろうか?そんな彼女に、私は時々話しかけてみたり、たまには軽い冗談とかも言ってもみたりしたけれど、彼女の表情は何一つ変わることはなかった。

私はそのまま密かに見守ってはいた。話をしたほうがいいとも思った。けれども、それよりも先に決定的なことが起きてしまったのだ。

お客さんが、その彼女の前で、大声で怒鳴っていたのだ。それは普通じゃなかった。お客さんが顔を真っ赤にしている。私は慌てて、その場に走った。私は、あの時の場面を、今でもはっきりとこの目に焼き付けている。その怒鳴っているお客さんよりも、その彼女の態度に私は信じられない思いだった。

彼女は無表情に床の一点を、ただ、見つめているだけだった。その彼女の目の前には、怒鳴るお客さんがいるにもかかわらず、彼女はそれがまるっきり聞こえていないのか?問題でないのか?それとも見えないのか?ただ、死んでいるかのように動かず、うつむいているだけ。泣くでもなく、詫びるでもなく、ただ、無表情にうつむいているだけだった。

何も言わない彼女の横で、私はひたすらお客さんにお詫びをした。あとからわかったことなのだけど、彼女は、そのお客さんの配達の受付時に、お客さんに渡す大切な書類を、突然お客さんの目の前でポトンと床に落したのだそうだ。

そして、そのお客さんに、何ひとつ表情を変える事なくこう言ったのだった。

「拾って・・・」

そのお客さんが紳士的な方だったことを、私は心から感謝した。私が頭を下げる程度でこのクレームが終わったことは、奇跡だったと言ってもいいかもしれない。ただ、そのお客さんが、私に言った最後の言葉が、私には心に深く刺さる痛みとして、とても複雑な思いがしたのだった。

「心の病んでいる人を、
売場に立たせるんじゃないよ」

心の病んでいる人。その言葉を口にしてみて、私ははじめて気がついた。私はそれを、どこかうすうす感じていながら、ずっと逃げていたような気がした。私が、接客の悪さを直すことは出来たとしても、病んだ心まで直すことは出来ない。

私の間違いは、あのお客さんの言った通り、心が病んでいる彼女のことを、気づかないうちに、見て見ぬ振りをしていたことであり、心が叫び声をあげるほど病気だったのに、彼女を売場に立たせたことだった。

そのあと、私は、店の応接室で、彼女とふたりだけになり、何か思いつめた表情で、テーブルの上をじっと見つめる彼女に、私はポツリとつぶやくように、こう聞いたのだった。

「何があったの?」

その言葉に、彼女は突然、大声で泣きはじめた。あとで彼女が話してくれたのだけど、あの時、正気に戻っていた彼女は、あんな態度をとったことで、私にひどく叱られることを覚悟していたらしい。でも、私の「何があったの?」の一言は、彼女にとっては意外だったようで、心の奥深い場所にある何か傷ついたものに触れたようだった。

結局、その数日後に、彼女は仕事を辞めてしまった。”しばらくの間、休んだほうがいい。”と私はあの時、言ったのだけど、まじめな性格の彼女のことだ。彼女なりに、そんな彼女自身が許せなかったようだ。

彼女の病んだ心。
とうとうその原因は、私にはわからなかった。

「何があったの?」という私の言葉に、彼女にとって本当に伝えたい言葉はあふれるくらいにあったのだろう。でも、それが言えなかった。

私では力不足だと思ったのだろうか?
それとも・・・なぜだろう?
今も私は分からないでいる。

そう言えば、彼女がいなくなっていつしか、カウンターに置いてあった花瓶の花が枯れて下を向いていた。いつも、彼女が花瓶の水を替えてくれていたのだった。まるで枯れたその花が、寂しげなあの彼女のように思えた。

あの時、心が叫んでいても、私に何も伝えなかったのは、これ以上、迷惑はかけられないという、彼女なりのやさしさだったのかもしれない。それはもう、二度と確かめることはできないけれど。

ぼんやりと私はそのきれいな花瓶を見つめていた。そのとき、私は少しだけ、彼女のことがわかったような気がした。まだ、笑顔だった頃の彼女を遠く思い出しながら。

枯れた小さな花びらが
何も言わず床に落ちてた。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一