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あの日の救急車と小さな雨と。

私は今までの人生で一度だけ、救急車を呼んだことがある。

忘れもしない、あれは秋ごろの朝方のことだった。
当時、単身赴任をしていた私は、前日に家族のいる家からこのマンションに帰ってきていた。すでに前兆はあった。高速を使って車で3時間、急いでいたせいもあり、途中のパーキングエリアで休憩もせず運転したのだった。腰に違和感があった。明日は仕事だし早く寝なければと思い私はすぐに横になった。

そして朝方、7時頃に目が覚めてトイレに入り、用を済ませて立ち上がった瞬間、腰に稲妻が走った。あれは本当に痛いどころの話ではなかった。神経を何か所も同時に太り針で刺されたかのような痛みだった。あまりの痛みに私はその場でうずくまった。声も出せず倒れ込んだまま、10分くらい動けないままでいた。

ギックリ腰だ・・・と思った。

それにしても、どうしてこんな間抜けな名称なのだろう。ただでさえ、ひどい痛みだというのに、人に説明するのに、いちいちギックリ腰って言わなきゃならない。いや、今はそんなことはどうでもよかったのだ。

とにかく私は途方に暮れた。単身赴任だった私は一人暮らしで部屋には誰もいない。私は何とか力を振り絞りゆっくりと立ち上がり、部屋まで歩きケイタイを手に取った。妻にメールした。近くの病院の連絡先を至急、調べて教えてくれと。

私はまだ、引っ越したばかりで病院を知らなかった。しばらくして妻から直接電話がかかった。私の死にかかった声を聞いてとても心配そうにしていた。とにかく近くの病院の連絡先を教えてもらうと妻には「心配しなくていい」と伝え私はすぐに病院に電話した。

そのときは朝8時を過ぎたぐらいだった。1件目はなぜか断られた。理由は忘れた。時間が早すぎたのかもしれない。2件目に電話した。“はい、〇〇病院ですがぁ”ととてもぶっきらぼうな看護師らしきおばさんの声がした。私が病状を伝えるとそのおばさんは「じゃぁ、すぐにうちに来てください」と言ってくれた。

でも、私はそのひどい痛みで動けない。車で運転することさえもできない。ひとりきりの心細さもあって「あのう、どうしたらいいんでしょう?」と半分泣きながらそのぶっきらぼうなおばさんに言ったのだった。

今思うとなんて情けないんだ。小学生じゃあるまいし。でももう、そのおばさんにすがる思いだったのだ。

「なに言ってるの!そういう時は救急車を呼びなさい!遠慮なんかしている場合じゃないでしょ!」と私は思いっきり叱られてしまった。

そのおかけで私は吹っ切れたのだった。心では救急車を呼んだほうがいいかもと思ってはいた。でも、人に迷惑をかけたくないという思いが、その時の私は強かったのだ。

私はすぐに119番に電話した。人生初の119だ。

「火事ですか、救急ですか?」の問いかけに私は「救急です」と答えた。そして住所と病状を伝えると、しばらくしてサイレンがこのマンションに近づいてきた。「玄関の鍵は開けておいてください」と言われ「はい」と答えたものの私は痛みで全く動けない。それでも賃貸のマンションのカギを壊されてはたまらないと、痛みをこらえて玄関までゆっくりと歩いて行き、カギを開けた。

そこで私は力尽きてしまった。

もう、一歩も動けず、しゃがむことも出来ず、壁にもたれかかって救急隊員の到着を待った。外のサイレンの音が止まると、すぐに階段を駆け上がってくるいくつかの足音が近づいてきた。

「青木さんのご自宅ですか?」

と玄関の外から大きな声がした。「はい・・・」と私が息も絶え絶えに答えるとドアが開けられた。救急隊員が玄関にいた私を見て「患者はどこですか?」と聞いてきたので「私です」と答えた。まさか、患者本人が玄関に立っているとは思いもしなかったのだろう。

その救急隊員は目を丸くすると私に再度、病状を確認した。普通はストレッチャーに乗せられるのだろうけど、このマンションにはエレベーターがなかった。私の部屋は4階にあった。

「僕の肩にしっかりとつかまってください!」と私は言われ、二人のその救急隊員に私の両肩を預けた。

私は二人の隊員に両肩を抱えられながら、ゆっくりと階段を下りてゆく。私は痛みがひどくて歩こうとしてもほとんど歩けない。二人の救急隊員は私よりも随分と若かった。それでも私を気づかって、よろけそうになりながらも、ゆっくりと階段を下ってゆく。

私がこけそうになるたびに「もう少しですから頑張ってください!」と言ってくれた。私は何もがんばっていない。もはやぶら下がっている状態だ。踏ん張って頑張っていたのはその隊員たちだったのだ。

それなのに「大丈夫ですよ。もうすぐですよ!」と苦しそうな声で言ってくれた。あの時、私は心から申し訳ない気持ちで本当に泣きそうになった。

やがて1階にたどり着くと、目の前にあの赤い救急車が止まっていた。赤いボディがやたらと大きく感じたのを覚えている。

そこではじめて私はストレッチャーに乗せられた。気付かなかったけど、外は小雨が降っていた。空に向いた私の顔に、いくつもの小さな雨粒が当たっていた。気付くと近所の人たちが、ざわざわと集まっていた。子供たちもいて、心配そうに私を見ている。その光景が、なんだかまるで映画のラストシーンのようで、私は世界を救って傷ついたトム・クルーズのような気分だった。

なんのことはない。
現実はただのギックリ腰のひとりの男が運ばれたに過ぎなかった。

やがて病院に到着すると、私はそこで検査を受け、その夕方にはなんとか歩けるようになりタクシーで自宅マンションに戻ったのだった。

結局、その後、1週間近く、自宅療養になり仕事も休んだ。今思うと本当にたくさんの人たちに迷惑をかけた。

妻や、ぶっきらぼうな病院のおばさんや、職場のみんな、マンションの人たち、そして救急隊員。とくにあの若い二人の救急隊員には感謝の気持ちでいっぱいだ。本当ならお礼が言いたかったのだが、誰なのかさえもさっぱりわからない。

救急車に運ばれて、救急病院に着き、それっきりで終わってしまった。あのとき、一生懸命に私の両肩を支えて、私を励ましながら階段を下ってくれた。それはどんなに大変なことだったか。そして、どんなに勇気づけられたことか。

もしも「それは金のために仕事をしているのだから当たり前だろ」と思う人がいるとしたら、私は小一時間、その人に説教するだろう。誇りをもってその仕事をしている人たちは、もうそのときすでに、お金という概念はすっ飛んでいるのだ。ただその人を救いたい。助けてあげたい。きっとその気持ちしかないのだ。

これはもう、3年くらい前の話になる。この気持ちは多分、死ぬまで私は忘れないだろう。そして本当に、私が最後に救急車に運ばれるときは、この情景を思い出すことだろう。

私は小雨が降ると、時々、あの若い隊員たちを思い出す。「頑張ってください!」「大丈夫、もうすぐですよ!」と言って私を励まし、頑張ってくれたあの二人を。

そして私はその恩を、ちゃんと自分の仕事で誰かに「恩返し」ではなく「恩送り」をしなければと心を引き締める。

小雨が降ると私は時々、誰もいない道を選んで、わざと傘をたたむ。そして空を見上げて、いくつもの小さな雨粒を顔に受けるのだ。

あのときの気持ちを思い出すために
そして誰かにこの力を尽くすために。

それが私の、ひとつの生きる証なのだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一