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泣いている人に優しくできない

「泣く」って、立派な能力だと思うから。 


私は人の涙が苦手なのかもしれない。ふとそう思った。
でもそれは「涙に弱い」という意味じゃない。
今日は、人の涙について、考えたことを綴ってみる。

ただ、一言に「涙」といっても、いろんな種類がある。
嬉しくて泣いたり、笑いすぎて泣いたり、感動して泣いたりすることもある。
向かい風に吹かれたり、ドライアイだったりして、目の乾燥で涙が出ることもある。
けれどこの記事は、主に悲しさや苦しさなどのネガティブな感情からやってくる涙についての話になることを先に伝えておきたい。


「泣いている人に優しくする」という道徳

「泣いている人には優しくする」だなんて、人生の基本中の基本だろう。

もちろん、泣く泣かないに関係なく人には優しくしよう。
それでも、泣いた人には一層優しく接してあげよう。

小学生になるまでには、経験的に覚えている道徳だと思う。

だって、その人は傷ついているんだもの。
傷ついたから、泣いているんだもの。

だけど私は、それがなぜか心にひっかかった。
こんな問いかけが頭に浮かぶ。
「じゃあ、泣いていない人は、傷ついていないのか?」
ぶっちゃけ、我ながら意地悪な問いだと思う。


「泣く」を符号化する他者

「泣く」という行動は、あまりに視覚的に目立つ。
だから、誰かが泣いたときは、本人の心情よりも「泣いた」という事実が注目を集める。

テレビ番組で、出演者が泣き出すハプニングが発生すれば、テロップに「号泣」と書いた予告をしてCMが挟まれる。
YouTube作品の場合でも、サムネイルには出演者の泣き顔、タイトルには【大号泣】とアピールして視聴者の注目を集める。

別に悪いことじゃない。
泣いてしまうのはそこに感情が生まれたから。
何もないところから涙は出ない。

感動の涙だったり、恐怖心からの涙だったり、その種類は違えど、涙は確かに出演者の心が動いたことを示す証拠であり、だからこそ視聴者の注目を集めることができる。


だけど、そんな「涙の強調」は、思い出話なんかにも表れることを知った。

これは私の具体的な実体験になるのだが、以前母親に度々掘り起こされていた思い出話がある。
私がまだ幼稚園児くらいだった頃。レストランの駐車場ではしゃいでしまい、温厚な父が血相を変えて私を強く叱りつけたことがある。その時、私はかつてないほど大号泣したらしい。という話。

私が気になるのは、母がこの話をするとき、「大泣きした」という部分だけが強調されること。

出来事としては、「駐車場ではしゃぐと危ないので、父が私を守るために叱った」という話であり、どちらかというと私が交通安全についてその時に学んだかどうかの方が大切な気もする。泣いたかどうかなんてぶっちゃけどうでもいい。
だけど、思い出話としては「めっちゃ泣いた」でオチをつけられる。

それがなんだか、気持ち悪いと思ってしまうようになった。……という話の続きはまた別の機会に話すとしよう。

要は私が気づいたのは、どうやら「泣く」という行為は、動作の張本人というよりも、それを目撃した受け手側にとってインパクトが強いものらしいということ。
飽くまで、その体験は泣いた本人ではなく、それを見聞きした人のもの。

きっと、本人にとっては、自分が泣いたときに何があったか、その原因となった出来事や状況の方が大切なんじゃないかな。


「泣く」って、ある種の能力なんだと思う

人というのは何においても大抵個人差があるもので、泣きやすさだって人によって違う。
「泣き虫」なんて言葉があるくらいだから、きっとそうなんだろう。

少しのことで泣いてしまう人もいる。その一方で、滅多に泣かない人がいる。
でも、だからといって、泣きやすさと傷つきやすさはたぶんイコールではない。

つらくても涙が出ない人だって、いるに違いない。
涙が出るようになるまでのストレス量も、きっと個人差がある。

同じだけつらくても、泣く人と泣けない人がいる。
そのとき、泣けない人は泣く人と同じように誰かの助けを得ることができるのだろうか。

冒頭の方で、「泣いていない人は、傷ついていないのか?」なんて酷い問いをした。
当たり前だが、この悪問にYESと答えるつもりはない。

苦しいときに泣けることって、その苦しみを表現する能力なんだと私は思う。
自分の心の中の感情を人に伝えることなんて、とても難しい。
だけど、泣くことができれば、一発で伝わる。
詳細な感情までは読み取れないまでも、「何かがあった」ことを相手は一撃で察する。

幼い頃から培われた道徳に従えば、泣いている人に優しくする。
だけど、それは「傷ついている人に優しくすること」と同義ではない。
本当に苦しくても泣くことができない人がいるから。

本当に傷ついている人を助けるには、涙に優しいだけじゃ足りない。
みんなが「涙に優しい」人になった世界では、泣けない人が救われない。

誰かが泣き出したとき、咄嗟に優しく「神対応」ができる人って、めちゃくちゃすごいと思う。
だけど、涙という苦しみの指標は、やはり受け手側に生じるものだ。
飽くまでも涙は受け手側のために意訳された簡単な翻訳ツールで、人の苦しみを量ることをそれに頼るのは、ネイティブの苦しみに寄り添ったものではない。

だから、泣き出した人に対して「あ、泣いちゃった大変だ」と思うのは、苦しみの本質を捉えられていないんだと思う。泣いたから大変なのではなく、傷ついていることが大変なんだ。泣いていることと傷ついていることは同じじゃないんだから。
いわゆる「神対応」できる人は、泣き出した人を助けるときも「泣いちゃった大変だ」ではなく、「あの人、傷ついているみたいだ」という思考で動いているんじゃないかな。

泣くことは感情表現の能力で、苦しみの本質と涙は別物なんだと思う。


泣いている人にうまく優しくできない私

そういえば、私自身も最後に泣いたのはいつだったか、もはや覚えていない。歳を重ねて、泣かなくなったな。

子どもの頃は人一倍泣き虫だった。
親や先生に叱られでもしたら、その最初の怒声から一撃で泣き出していた。
本当に些細なことでも泣いた。

当時は自分のそんなところが大嫌いだったけど、今なら、それは「泣ける人」だったんだと思える。

それでも、今では泣くことがない。
今の方が確実に、泣き虫だった頃よりもつらい思いをすることもあるのに、涙が出ることはないし、それが人に伝わっている実感はない。
だから、涙についてこんなことを考えてしまったのかな。

別に、涙に厳しい人になりたいわけじゃないのに。

自分が助けてほしいから、こんな記事を書いたのだろうか。
自覚はなかったけど、私は泣けない側なんだろうか。
いや、きっと歳のせいだ。そう信じたい。


結局自分は涙という視覚的にわかりやすいサインに頼らずに、人の心の中の憂鬱に気づいてケアしたいのだと思う。
だけど今の自分にはそれができない。そんなに勘の鋭い人間じゃないし、「あの人つらそうだな」と思っても、「もしも違ったら」が邪魔して行動に移せない。
そしてなにより、「泣かれるとコロッと優しくなる自分」が客観的に許せなくて、泣いている人に優しくできない。
理想の自分を拗らせているのだろうね。

それが、私が泣き出した人に対してまっすぐに優しくできない理由。

誰かが泣き出したときはもちろん、うまくフォローしなきゃとは思うけど、「泣いたから優しくするのか?」と鋭い声で心に問いかけてくる自分がいる。

涙に弱い自分でありたくないんだきっと。
結局は保身か。そっか。

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