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短編小説『あたたかい楽器』

 地方に出張したとき、楽器屋の前を通った。民家に紛れ込んでいて、気づかずに通り過ぎてもおかしくなかった。ガラス越しに美しく滑らかな管楽器が飾ってある。サクソフォン、ホルン、トロンボーンだ。少し離れていても手入れが行き届いているのがわかる。看板は雪が覆っていて見えない。
 店の入り口には屋根から落ちた雪が積もっていて、誰も通った形跡がない。しかしガラス戸越しに人影が見えた。

 雪をふんずけると雪が鳴いた。ガラガラと戸を軋ませながら私は中に入った。

「いらっしゃい」

 その店は、中に入ると私とご主人でいっぱいになるようなお店だった。2畳ほどのスペースに楽器が所狭しと並んでいる。
 ご主人は、股引と腹巻姿。髪がほとんどなく、足はふらついている。80代くらいに見える。

「あったかいですね、お店」

 ストーブやエアコンの独特の匂いがしないのに、店内は暖かかった。床はコンクリートだった。

「この楽器たちのおかげですよ」

 私は店内の楽器を見回してみたが、特に変わったところはない。

「何か、やってみますか?」

「いいんですか?」

 と言いながら、私の手はトランペットに伸びていた。
 マウスピースを口にあて、目をつむると懐かしい気持ちになる。大学時代は、よく吹いていたなー。

 ゆっくりと息を吐き出す。
 あれ?
 もう一度空気を吸って、吹く。
 おかしい。

「音、出ませんね」
 私が苦笑いでご主人を見ると、ご主人はなんとも気持ちよさそうな顔で目をつむっていた。

「いい演奏ですね。もしよかったら差し上げますよ」

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