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信じているものは何(24)S3始

号泣する女性

父が亡くなり、父の葬式を執り行うこととなったんですが
ここで、プチ珍事件が起こります。

父の葬儀には、生前の父の人柄や交流関係の深さから
予定より多くの方が弔問に訪れてきた。
喪主は母でしたが、母の代わりに私がほぼその役割を
担ってました。

葬儀というものは、始まりから終了・納骨まで、
慌ただしく時間が過ぎていき、感傷に浸る間も無いほどでした。

そんな中、弔問客に挨拶を行っていると、1人の泣き崩れた
であろう姿の女性が友人に支えられながら現れた。

もちろん私もお会いしたことがある人でした。
私は父の息子なので、交流こそはありませんでしたが
何度もお会いしており、悲しんでいたであろう姿も
最初は特に気にすることはなかった。

そうして、私の前を通り、涙を拭きながら挨拶を交わし
母の前に来たとき、急に大泣きし出した。

その泣き方は、子供が泣き出して収まりつかないときの
ように嗚咽しながらわんわん泣いていた。

母もちょっと驚いたが、「そこまで思ってくれてありがとう」
という言葉を掛けた。
しかし、その女性の涙は止まることを知らず、ますます
泣くんです。

そして、こう言いながら泣いているんです。

「ごめんなさい」「ごめんなさい」

私は、「?」何で謝る?とおもい
母を見ると、ちょっとびっくりした顔で、
「何が?」「大丈夫よ」
「あなた関係ないよ」
と言っていました。

それでも、その女性はただ「ごめんなさい」を繰り返し
そして泣いていたんです。
あまりにも泣き崩れていたので、友人に抱えられ席へと
連れられていきました。

そして母は私に一言

「何で、あんなに泣くの?」
「ごめんって何のことやろう」

私は、ピンときたが、口にはせず
「わからんけど、とても悲しかったんやろう」
とだけ言っておきました。
母は、納得はしましたが、腑には落ちてなかった
そんな顔をしていました。

遺品整理などでもちょっぴり面白い話がありましたが
これはまた番外編にてお話しいたします。

MさんとXさんそしてTさん

弔問にはMさんが来てくれました。
場所はお伝えしておきましたので、体調がよければ
ということでしたので、どうかな?とおもいましたが
来ていただいたので、少しお話しいたしました。

Mさんは、両親が障害を持っていることを
そのとき初めて知ったようで、何やら、今までのことを
詫びるような口調で、お話しされてたようにおもいます。

そしてその日はそれで帰られました。

Xさんに関しては、電話でお話をして
お悔やみをいただきました。
もちろんTさんも、名古屋ですので、電話にて
お悔やみをいただき、ロザリオの祈りも献げてくださいました。
3人の方々には、この場で改めて御礼申し上げます。
 ありがとうございました。

しかし、そこから全てが大きく変わり出したのです。
名古屋のTさんから、ちょっと距離をおいた方がいいと
連絡があった、というのは、Tさんの両親に会い、いろいろ
お話をしましたが、あまり気に入られなかったようです。
年齢に多少差があったこともありますが、大阪に居るということ
も理由の一つのようです。
おそらく、1番の理由は、私がクリスチャンらしくない人物
だったのでしょう。
普通よりは多少逸脱した環境で育ってきた私から、何か危険な
匂いがしたのかもしれません。
ま、そうであればすごい洞察力ですね。
ただ、逆に私もそう感じていたことは、今ここで告白いたします。

そして、私の仕事が忙しくなったこともありましたが、
徐々に連絡が遠のき、挙句にこう言われた
「もう、連絡を取らない方がいいのかもしれない」

私は、父の死後、葬儀や遺品整理に役所手続きと
全て行っていたため、疲弊していたこともあり、
「わかった、ありがとう」と言って
そこで、それまでの付き合いは終わった。

しかし、不思議なことに、Mさんからの電話も大幅に減ったのです。
もちろんXさんもです。

一週間に一回から二回かかっていた電話も1ヶ月に一回から二回ぐらいに
なったのです。これは不思議でした。

しかし、私は信じる対象が、最も簡単に消えてしまうことに
疑問を持ちました。
というのは、信じることは、心の問題であり、見えないものの存在
であるはずが、見えるものだけで判断している人たちを
私は信じていたのかと、疑心暗鬼になったんです。

そして、LP運動より一貫して信じていたキリスト信仰にも
疑いの目を向けてしまうのです。

信じていた幻視者のスキャンダル
教会のスキャンダルに腐敗
成就しない予言
度重なる分裂
偽善
など、あまりにも自分の周りに蔓延ってることに
完全に心を失った状態になってしまいました。

そうしているうちに、どんどん仕事が忙しくなり
それらのことを考える時間も無くなりました。

しかし、この世は人の世界です。
人が居ればそこには宗教があり、信じるものがある
その最小単位は、隣人を信じることでした。

幸いなことに、その気持ちは失っていなかったようだ。
そして、私は、一旦心をフラットにした。

そして、人として今まで私が学んできた道徳と照らしながら
物事を考えていこうとしました。

まずは私は誰だ、EKという日本人だ。
障害のある両親のもとに生まれ、困難な出来事を
経験してきた。
そして、一つのことを信じ、それが崩れ、もう一度
同じように頑張ろう。

そう思いました。

・・・。

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