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信じているものは何(27)

なぜ、教会に行かなくなったのか。
一言で言えば、私の希薄な信仰が原因なんであろうと
思いますが、信仰が薄くなる原因を少し考えたいと思います。

第一に考えられるのは、カトリックの世俗化です。
カトリック教会は、公会議にて色々な問題を解決し
時代に合わせて変革をおこなってきました。
しかし、色々と伝統的な風習が失われていくことで
信者が信仰という内面的なものを失い、外面的に
表すことが信仰になり、それが善だと勘違いすると
私は考えています。

例えば、ミサ聖祭。
背面式のトリエントミサから対面式の対面式のノブスオルドミサに
変わった。細かいことは別に記載しますが、言葉がラテン語から
母国語に変わったり、聖体拝領の際も手で受けるなど、大胆な
改革が行われた。それ以外にも多々ありますが控えておきます。

子は親(父母)の背中を見て育ちます。
信者は父である神父の背中を見て信仰が育まれます。
神父の敬虔な態度が、熱心な態度が信者の心に響き
同じように信仰も増していくものと考えています。

信者や予言者、幻聴者、幻視者による影響があります。
それを信じついて行ったところ、嘘であったようです。
なぜようですと言ったかというと、私自身が最終的な判断をしていない
だけなんですが、真偽を自身で確かめもせずに、決めつけることは
したくないので判断を避けています。
今はそこからは離れました。

要するに、カトリックにあったものが、プロテスタントには無く
プロテスタントからカトリックに改宗したにもかかわらず
教会はプロテスタントに向かっていってるかのようでした。

さらに、個人に直結する事柄で言えば、
いわゆる「見えるひと」「聞こえる人」ですね、そこに振り回され
人間不信に陥りかけた、しかもクリスチャンということで、
少し離れたかったのかもしれません。

そして普通の信者でもあまり聞きたくない発言を耳にしたり
しましたので、徐々にですが、普段の生活の中で、熱烈な
信仰の灯火は小さくなり、今は火種のような小さい塊になって
心の隅でその日を待っているようです。

さて、このシリーズのタイトルの話に戻しましょう。

いろんなことを話しましたが、私の信じているものは
キリスト教の神、主イエズスキリストであり、その教えである
ことです。

私の考え方として、カトリック信者であることは、他の宗教を
信じている者を拒否するのではなく、その方々自身は受け入れ
るものと考えています

しかし、宗教祭事に関しては、他宗教ということから、参列は
しても参加はしませんでした。
要するに、その辺の人たちと同じように振る舞っていただけなのです。

しかし同じキリスト教に関しては完全に差別化を図っていました。
カトリックから派生したプレテスタント、
カトリックと決別した正教会(ギリシャ、ロシアなど)
ユダヤ教、イスラム教も同じであるが、カトリックと違うことを
主張しているかであります。

しかし仏教は全くの別物、神道に関しては、日本特有の信仰であり
神道に関しては、「あらゆるところに神がいる」(八百万の神)
という考え方が、「キリストは常にあなたの側にいる」
という言葉と重なり不思議な気持ちになっていた。

カトリック信者として、最初の頃は日本の仏教や神道とは
少し距離を置いていました。
やはり宗教という括りで見た場合、どうしても違うものと
見てしまうのは仕方がないことだと考えていました。

しかし、色んな意味で、その信仰が弱まったときに、ふと考えたんです。

「キリストを信じ、その教えを守らなければ、天国へ行けない」

そこに疑問を持ち始めました。

何のために宗教があるんだろうか?
神と人との約束なのか。
人が現世で、試されているのだろうか。
ただ、道徳心を養うための教育なのか。
それとも利権なのか。

最後のは生々しいですね。

そんなことを考えながらも、キリストの言葉を思い出した。

エルサレムで律法学者の「掟の中で一番大切な掟は何ですか」
という質問にイエズスは答えた。

「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、あなた方の
 神である主を愛しなさい」

これが第一の掟とし、続いて第二の掟を話された。

「隣人を自分のように愛しなさい」

そうです。神は愛なのです。
神を愛すること、全身全霊を尽くして愛すること
これが原点なのですね。

でも、具体的にどうすればいいのかわからなかった。


なんとなく、神は愛なのだと言うことを頭では理解しました。
しかし、神は絶対の正義なのです。
「その審判の日は、神の正義によって裁かれる。」

最後の審判

埃ほどの誤魔化しも効かないということ。
全てお見通しの神様なので、正義の秤にかけ
判断されるのでしょう。

そんなときに、

「このものは私を愛してくれた」

そう言われて、永遠の園に入れることこそ勝利なのかも
しれませんね、そう考えが固まってきておりました。

やはり私の根幹にはキリスト教があり、その他の宗教は
あまり受け入れることは考えていませんでした。

そう思いながらも、再度、信じているものは何かを
探し始めるために動き出したのです。
それは、私が知る限りのキリシタン信者(殉教者)を
訪ねることから始めました。

彼らは神への愛を貫かれた方々なのです。

・・・。

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