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毎日書くということ、思考を書き残すということ

ただいまゼミ課題の一環で、自分の過去と今と未来を棚卸しするワークをやっています。

過去を思い出してみると、意外と「挫折」や「後悔」のタグをつけたくなる出来事はありませんでした。かつて大病して、深刻な病状説明を受けていたとも、それは現時点でのマイナス評価にならないのです。

子どもを出産した直後のことでした。当時、病院で自分の予後を聞いたとき、あまりのシビアさに「今こそ私は、遺言を書いたらいいのだろうか」と感じました。自分ごとではなく、人ごとのようでした。

そうは思っても、体調が悪くて座っていることもできません。一言も書けないままXデー(手術日)を迎えます。ストレッチャーに乗せられ、手術室に向かう廊下の天井が流れていくのを見つめながら、「やはり遺書を書いておけば良かった」「ありがとうの一言くらい、書き残しておけば良かった」と思いました。ですが、高熱でまともな判断ができず、できなかったのです。

さいわい手術が成功し、九死に一生を得ました。

その時に感じたこと。
本当に遺書を書かなくてはならない状況下では、人は書けないということ。
まともな判断を下せないということ。
自分の思っている気持ちや思考を伝えておきたいと思っても、何もできずに病苦に伏せたまま時が過ぎるということ。

だったら元気なうちに少しずつ、感謝の気持ちを伝えておきたいと思うのです。

健やかに子どもが成長しますように。
平和に一日が過ぎますように。
生まれくる子どもたちが、良き友人に恵まれた人生を送れますように、と。

毎日なんらかの言葉を書き残しておくだけで、それはできると感じたのです。日記でもnoteでも手帳でも、やり方は人それぞれ。書きやすい方法、続けやすい方法が見つかるといいと思っています。

遺書代わりに、というと大げさかもしれません。
毎日何らかの思考を言葉に置き換え、悩みもそのままに言葉を残し続けていきたいと思います。



今朝ほど公園で見かけた柳の木は、すっかり新緑に覆われていました。手前から奥の方へ、目の前にたくさんの枝が垂れ下がっています。多くの枝から無数の新芽が萌出しているさまは、まるで、過去から未来へとストーリーが続いていく感覚でした。

真ん中の新芽は、「今ここ」の自分を投影しています。過去でも未来でもなく、「現在」の立ち位置。そこにピントを合わせて、良きことも、良くなきこともそのままに、今日も書き、日々暮らしていきたいと思います。

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