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おはよう、アカリ(2)



          *


 あぁああ。
 なぜわからなかった?
 どうして気づけなかったんだろう。
 帰宅するなりベッドへ倒れ込んだきみは、額に手を添えて控えめな唸り声をあげた。眉間に皺が寄っている。すごく具合が悪そうだ。ひょっとすると熱があるのかもしれない。急いできみへ近づいて、顔を覗き込む。

( !?)

 大丈夫?――と尋ねる前に、予想外の〝微笑み〟が返ってきた。
 嬉しいけど、ダメだよ。無理しないで。寝ていて。身体を起こさないで。横になったまま楽な姿勢で――という願いを聞き入れて、身体を気遣ってほしかったんだけど、
「ごめんね。お腹空いたよね?」
 きみはぼくの頭を撫でながら起きあがり、カリカリをしまっている棚へと向けて歩きはじめた。
 待って! 慌ててあとを追いかける。待って、待って! ご飯よりも、いまはきみのことを。きみの身体のことを。休んでいてほしいからベッドへ戻って――と思いながらも、お皿に載せられるカリカリの音を耳にしたら、尻尾がまっすぐ立ってしまう。
 あぁああ。なにやってるんだ。
 きみが見つめている。ぼくへ微笑みを向けてくれている。本当はすごく辛いはずなのに、ぼくを思って見守ってくれている。
 大丈夫だろうか。瞳の奥にも辛そうな暗い色が浮かんでいて心配になる。きみは一体いつから体調を――いや、知っている。ぼくは知っていたんじゃないか?
 そう。
 そうだ。
 ぼくは気づいていた。
 きみが起床時にみせていた異変に気づいていた――気がついていたじゃないか。今更ながらではあるけれでも、きみの声の調子が悪かったことに気づいていた。もしもぼくが、いつもと違って声が掠れているよ、と伝えていたら、きみは外出を控えて、部屋で休んで、ここまで体調を崩さずにすんだかもしれない。苦しまなくてすんだかもしれないのに。
 ——あぁあ、
 アカリ。
 アカリ、大丈夫?
 踵を返していたきみのあとを追って、ぼくは早足で駆ける。耳のうしろ毛を引くカリカリの存在を頭の中で蹴飛ばして、きみの匂いを追う。名前を呼ぶ。

 ——アカリ?

 ぼくの呼びかけは、ぼふん、と大きな音をたてながらベッドへ沈み込んだきみにかき消されてしまったように思うので、再び呼びかける。

 アカリ?

 目があった。
 微笑みかけられた。
「どうしたの、ネコさん? ご飯食べておいでよ」
 ぼくは泣くように鳴いて、きみをまっすぐ見る。
 ゆっくり瞬きしながらきみの呼びかけに応える。
 ごめんね、アカリ。
 気づいていたのに、ごめん。
 なにも言わなくて、本当に、ごめん。
 大丈夫?
 大丈夫なの? アカリ?

      *   *   *

 少し開いた遮光カーテンの隙間から、色が薄くて、まんまるい月が見えた。
 ぼくは香箱座りをやめて、うなされているきみからほんの少しだけ離れる。
 柔らかな毛布の上を歩く。
 ふいに、くるるるる、と、お腹が鳴った。
 きみが用意してくれたカリカリがお皿に載っているけれども、まだ口をつけていない――だって、まだ、きみも、夕食をとっていないから。
 窓の外は薄暗い。
 室内はもっと暗くて静かだ。
 ぼくはしばし室内を歩き回って、さっきまで座っていた場所へと戻って、腰をおろす。
 横になっているきみの足元。白い掛け布団の上。気の所為じゃなく、きみの体温は普段よりも高い。

      *   *   *

 あぁあ、アカリ。
 ごめん。本当にごめん。
 気づくなりぼくはすぐに言うべきだったんだ。
 言わなくちゃいけなかったんだ。

 ごめん、アカリ。
 ごめんね。
 苦しまないで。
 お願いだからどうか、元気に。元気になって、アカリ。お願い。お願いだから、起きて。目を覚まして。
 いや、違う――そうじゃない。
 よくなってほしいから、いまは休んでいてほしい。ゆっくり休んで。ゆっくり眠っていてほしい。
 ゆっくり。
 ゆっくりと。
 ゆっくり、休んで。

      *   *   *

 ずっと呻いている。
 苦しがっている。
 あぁあ。
 ぼくはどうしたらいい? なにをしたらいい?
 ぼくになにができる? きみになにをしてあげられる?
 そっときみに寄り添う。きみに触れてみる。苦しそうに呻き続けるきみのそばで、きみの横で、ぼくは見守ることしかできない。
 ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
 もう悪く言わないから。きみのことを悪く言ったりしないから。
 怒鳴られたっていい。〝雑に〟身体を押されたっていい。
 ぼくは素直にその場から動く。離れるよ。きみに文句を言わず、これからはすぐ行動に移すよ。
 そう、そうだ。そうだよ、約束する。
 ご飯も一気にたくさん食べたりしない。お皿を取りあげられても抗議したりしない。だってそうして貰わないとぼくは調子にのって早食いして、きみに迷惑をかけてしまうから。知っているから。そう、知っている。知っているんだ、本当はわかっている。
 きみが怒る理由。
 ぼくが怒鳴られる理由。
 お皿。廊下。柱、壁。ティッシュ。ビニール袋。扉。
 きみは怒ったあと、ぼくと同じ目の高さへとすぐにおりてきて、いつも、いつもいつも柔らかで優しい言葉をかけてくれるというのに。
 ごめん。
 ごめんね。ごめんなさい、アカリ。お願いだから元気になって。もう怒らせたりしない。困らせたりしない。しないよう最大限に努力するからお願い――お願いだから解放を。解放されてほしい。楽になってほしい。苦しさから、辛さから、悲しみからアカリが解放されてもらわなきゃ困る。困るんだ。
 誰か。誰か、お願い。お願いです。アカリから苦しみを取り去ってください。その苦しみをぼくへ。ぼくの中へ全部移し替えてくれたって構わないから、どうか。どうか、お願いです。誰か。アカリを。アカリを救ってください。

 たったひとりのアカリを。
 ぼくにとって、世界そのものである、アカリを。

 ぼくがいまこうして暮らしていられるのは、アカリと出会えたおかげ——アカリが手を差し伸べてくれたからであって、アカリとはじめて出会った日、捨てられていたぼくをアカリが見つけてくれたあの日、あのとき、あの瞬間、ぼくはただただ怯えていて、恐れていて、アカリのことも怖くて仕様がなくて威嚇ばかりしていたというのに、アカリは臆せずに接してくれた。抱きしめてくれた。ぼくを家へと連れて帰ってくれた——
 あぁあ、アカリ。
 アカリ、どうか、元気になって。
 もう一度ぼくに微笑みかけて。身体に触れて。頭に、顎に、鼻先に触れて。ぼくにハグして。
 ごめんね。
 ごめんなさい。
 もうアカリのことを悪く言ったりしないから、どうか、お願い。
 お願いします。

 アカリが元気になってくれるんだったら、ぼくはどうなってもいいよ。
 どうなろうとも。

      *   *   *

 月はもう見えない。
 場所を移動して、カーテンの裏側に入って、薄暗い窓の外をくまなく見渡してみるけれども、色が薄くてまんまるい月の姿はどこにもない。

      *   *   *

 鳥が囀っている。

 きみは静かになった。
 ようやく苦しんでいる声が聞こえなくなった。
 
 窓の外はまだ薄暗い。
 ぼくは目を開けていられなくなって、きみのそば――いつもは近づかない、きみの顔のそばで身体を丸める。

      *   *   *

 アカリ。
 アカリ、どうか、元気になって。

 アカリ。
 アカリの匂い。
 アカリの匂いのほうへ鼻先を向ける。
 アカリ。アカリの姿——きみの姿を。
 きみの姿を見たくて瞼を開きたいんだけど、なぜか重くて全然もちあがらない。
 起きよう。
 起きなきゃ。
 目を開かなきゃ。きみの姿を確認しなきゃいけないのに。

      *   *   *

 まだ鳥が囀っている。
 少しだけ、室内が明るい。

 きみ――きみの顔が目の前に。
 温かい息がぼくにかかる。

 ぼくは、きみを見る。
 きみもぼくを見ている。
 ――あぁあ。
 これが、
 この光景が、
 夢じゃなくて現実だったらいいんだけど。

 きみが微笑む。
 ぼくは応えるように瞬きして返す。
 唇が動いた。
 きみの唇が。
 遅れて発せられた声で、言葉で、ぼくはビクリと飛び起きる。

 ――夢じゃないよね?
 きみは確かに言ったんだ。

「おはよう」

 おはよう、と。
 おはよう、アカリ。
 お願い。お願いだから、どうか、ぼくを抱きしめて。



——了

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