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善き羊飼いの教会 #3-2 水曜日

〈柊シュリ〉


     *

 室内には二人の刑事さんがいる。ひとりは顔見知りで、わたしに気を使ってくれているのが言動や態度からわかるけれども――無理だ。心音が大きくて、早くて、息苦しくて、胃のあたりに不快な痛みが鎮座している。
 なにかいわなきゃ。
 口にだして、ちゃんといわなきゃいけないけれども、身体を、喉を、唇を動かせない。
「……!」
 突然、勢いよく出入り口の扉が開いた。
 知っている――顔に見覚えのある体躯のいい男性の刑事さんが肩を揺らしながら部屋に入ってきて、蔑むような目でわたしを見下ろした。
「自業自得やなあ」嘲るようにいって正面へ移動する。「柊シュリ、やったか」
「え?」
「あんたの名前や。たしか、シュリ、やったよな」
 思いだした。男性は、アカリが被害にあったストーカー事件のときに捜査してくれていた刑事さんで、名前は――
「森村だよ。その様子やと、忘れとったか」
「いえ。憶えてます」誰よりも厳つくて、誰よりも口が悪かったから顔は憶えていたけれども、捜査のときに応対してくれたのは長栖(ながす)という女性の刑事さんであることが多かったので、名前は忘れてしまっていた。ただし強く印象に残っている事柄がある。ストーカー犯逮捕後に訪れた筒鳥署の廊下にて、非難されたことはハッキリと、記憶に。
『理解してるのか?』
 厳しい口調でそういわれた。
『樫緒のところで働くのがどういうことか。どういう結果を招くのか、きちんと理解してるのか?』
 あのときはわからなかった。森村刑事がなにをいっているのか、なにをいおうとしているのかつかめていなかった。
「森村さん、まだ聴取の途中なんですよ」扉のそばに立っていた別の刑事さんが口を挟み、
「裏は取れたんやろ。いつまで話を聞いてんだ」荒っぽい口調で森村刑事がいい返して、ソファに座っていた刑事さんに「どけ」と命じ、強引に腰を下ろす。
「森村さん。割って入らないでくださいよ!」
「重大事件の捜査をやってんだぞ」
「刑事課だって同じですよ。あぁあ、すみませんね、柊さん」
 名前を呼ばれてドキリとした。扉のそばに立つ刑事さんへ目を向ける。呼びかけに応じようと、声をだそう身を乗りだそうと試みるけれども、姿の見えない何者かに襟首をつかまれて後方へ引っ張られているように感じる。
「裏は取れたんやろが」と森村刑事。
「取れたからって、すぐには終われませんよ」
「一時中断でいいだろ。こっちが先だ。重大事件の捜査をやってんだぞ」
「ですから、さっきもいいましたが刑事課も同じですって」
 再びやりあいはじめて、わたしは蚊帳の外に置かれた。
 肩に入っていた力を抜いて身を引くと、思いのほかソファに身体が沈んだ。キュキュと音が鳴る。革張りのソファとわたしとが擦れあう。身体を起こそうと腕に力を入れたら、さらに大きな音が鳴った。顎をあげる。室内を見回す。クリーム色の壁。壁に飾られた小さな絵画。窓は大きくて、おろされたブラインドの隙間から屋外の音が染み入ってきている。部屋の中央には落ち着いた色あいのテーブルが置かれていて、テーブルの上にはわたしの鞄の中からだされた品々が置かれている。財布。ポーチ。メモ用のノート。飲みかけのペットボトル。アカリからもらったDVD。所持品の中で唯一、スマホだけが森村刑事にどけといわれてソファから退かされた刑事さんの手の中にあって――刑事さんの名前はなんといっただろう。顔見知りなのに。ストーカー事件捜査のときに何度も顔をあわせた刑事さんだけれどもまったく思いだせない。
 目があった。
 あ、というかたちに刑事さんの口が開いて、
「そうだ」刑事さんがスマホを差しだした。「お返しします。証言いただいたとおりのやりとりしかしていないようですね」
「なんだお前、携帯までチェックしたのかよ。そこまでする必要はあったのか?」森村刑事が呆れたような口調でいって、奪うようにわたしのスマホをつかんだ。
「ちょっと、森村さん!」扉のそばに立つ刑事さんが注意して、大股で近づく。ソファの背面まで移動して、手を伸ばして、スマホを奪い取ろうとした、そのとき、
「鳥飼さんッ?」出入り口の扉が再び開いて、別の刑事さんが姿を現した。「鳥飼さん。被疑者と思しき者が見つかったそうです!」
「見つかった?」鳥飼と呼ばれた刑事さんは伸ばしていた手を引いて踵(きびす)を返し、苛立った声で問い返した。「どういうことだ? まさか出頭してきたのか」
「いえ。金子さんがつきとめたようです」
「金子が? どうして金子が」
「詳しいことはわかりませんが、いま、被疑者宅へ向かっているそうです」
「…………」鳥飼という刑事は室内にいるわたしたちに目配せし、「失礼」といって慌ただしく部屋からでて行く。
 大きな音を立てて出入り口の扉が閉まる。室内にはわたしと森村刑事、そしていまだに名前を思いだせない刑事さんの三人が残される。
 ――なに?
 なんだろう。なにが起こっているのだろう?
 被疑者? 金子さん? 金子さんって、あの金子さんだろうか。
 問いの解答を求めて、閉ざされた扉のほうを見た。
 被疑者と思しき者が見つかった――勢いよく飛びこんできた刑事さんはそういった。
「安心するのは早いぞ」
 森村刑事に話しかけられて慌てて顔を向けたが、不愉快そうに視線をそらされた。そらしつつスマホを差しだしてきたので、どうしてわたしに? と思ったけど――わたしのスマホだ。そうだった、なぜかすっかり忘れてしまっていた。わたしは刑事さんたちにスマホをチェックされていたんだった。SNSを利用したやりとりを。佐倉めぐみさんとのやりとりを。
 佐倉めぐみさんが何者かに襲われて死亡したと告げられたのは、待ちあわせていたカフェの中だった。わたしはカフェに現れた二名の警察官に腕を引かれて、パトカーの後部座席に乗せられて、あれよという間に筒鳥署の取調室で聴取を受け――取調室? ここは取調室なのだろうか。室内を見回す。足元に目を向ける。床にはカーペットが敷かれている。筒鳥署の二階。階段をのぼってすぐの部屋にわたしは通された。階段をのぼってすぐの部屋――以前、同じ言葉をどこかで耳にしたような気がする。
「身を以(もっ)て思い知っただろ。妹にはもう連絡したのか?」
「……え?」
「え、じゃねぇよ。自分の置かれている状況がわかってんのか」
「ちょっと、森村さんッ」横に立った刑事さんが焦った様子で口を挟む。
「黙ってろ、土屋」土屋? そうだ、土屋だ。土屋さんだ、刑事さんの名前は。「受け取れ。家族に連絡はしたのか? おい、聞いてんのか?」
「はい?」
「はいじゃねぇよ。ほら、早く受け取れ」
 差しだされていたスマホを両手で受け取り、テーブルの上に並ぶ所持品の中に埋もれされるようにして置く。なぜだかポケットの中へしまってはいけないような気がして。
「ったく……だからいっただろ。忠告しただろうが」大きく息を吐きだし、森村刑事は哀れむような目でわたしを見た。
 忠告しただろうが――いわれた言葉を頭の中で復唱する。
 忠告しただろうが?
 忠告? 忠告って?
「樫緒と一緒に働いて、あいつのやりかたを何度も目にしたよな? 犯罪者を相手に偉そうに振る舞っていれば、恨みをかわれて当然だ。なによりもあそこは犯罪捜査専門だから否が応でも事件と関わりをもつことになって、結果、こういったトラブルに巻きこまれるんだよ」舌打ちして森村刑事はソファの背もたれに身体をあずける。
 トラブルとは、佐倉めぐみさんが殺害されたことをいっているのだろうか。
 トラブルなんて言葉で表すのは間違っているように思えてならないが、反論しようにもわたしはそんな立場になくて、キリリと胃が痛みだし、指先が震えはじめた。
「樫緒のもとで働くことのリスクが、いい加減、わかっただろ」吐き捨てるように森村刑事はいって、苛立たしげに肘掛けを叩く。「まあ……樫緒は優秀な男だから、憧れを抱いて頼ろうとする気持ちもわからなくはねえが……あんたの妹が狙われた事件でも、あの男が介入するなり、あっという間にストーカー犯が特定されたからな」
「あ……は、はい」
 脳裏にアカリの顔がよぎり、両親の顔が思い浮かんで、堪らず指を組む。
「逮捕の際にも一役買ったようだが、あのときおれが現場に居さえすればもっと効率よくできたに……あぁあ、ま、いいか、この話は。それで? 家族に連絡はしたのか」
「え?」
「だから、え、じゃねぇよ。ったく……すぐさま方々に連絡しておくべきだろうが。家族が被る迷惑がどれほどのものなのかきちんと理解してんのか? まだ連絡はしてねえんだな? や、その周辺にも」
「え、えぇ……」
 胃の痛みが増し、顔をあげられなくなる。
 指の震えが激しくなる。
 再び家族の姿がよぎる。アカリの顔と声が脳裏をよぎる。
「ったく。自分のことで手一杯になれるような身分じゃねえだろ」
 ――そうだ。
 そのとおりだ。
 森村刑事のいうとおり。愚かなわたしは、今更ながらに自身の置かれている状況とそれに付加する重大な問題に思い至った。
 わたしはいい
 わたしなんかはどうでもいい
 聴取を受けているわたしよりも、家族のほうが――アカリのほうが比べものにならないくらい大きなダメージを受けるということに、いまのいままでどうして思い至らなかったのか、アカリの顔すら思いださずにいたのはなぜか――なぜなのか考えると、考えはじめると情けなくて息苦しくて仕様がなくなって、服の胸元あたりをつかみ、思いっきりつかんで胸を、首を、力一杯押して奥歯を噛み締めて、
「顔をあげろ。家族には、おれが電話して、事情を説明しておいてやるから、心配するな」
「え?」
「だから、え、じゃねぇよ。え、え、えって、何回いうつもりだ?」
「え……あ、はい。あの……すみません」
「連絡するといっても、その前にあんたが犯罪に関わっているのかどうかハッキリさせておかなきゃいかねえけどな」
 犯罪?
 わたしが、犯罪に?
「け、決して、わたしは佐倉さんを殺してなどいません!」
「その話は終わっただろうが。それとはまた別の話だよ」
「別? え、別って……終わった?」
 終わったってどういうこと? わたしは佐倉さんが殺害された事件の重要参考人として筒鳥署へ連れてこられた身であって――そういえば森村刑事が繰り返しているわたしへの叱責はどこかずれていて、話が噛みあっていないように思えていたけど……
「だからおれがこうして、ここにきてんだ」
 だから、ここにきた? 森村刑事が、ここに?
「…………」
 森村刑事がなにをいわんとしているのかよくわからなくて、終わったといったその真意がつかめなくて、別の話といったのもわけがわからず、もしかするとわたしは大きな勘違いをしているのではないだろうか。実のところ、これまでの会話は微塵も噛みあっておらず、わたしは勝手に話が通じているものだと錯覚していただけではないだろうかと考えた途端に不安が倍増して、服をつかむ手に力が入って、指が白く、白い指に目がとまるなり、「――は」と短く口から息がもれた。
「大丈夫か」
 心配しているように聞こえなくもないトーンで問う、森村刑事と目があった。
 わたしは首を振って応じる。
 キュキュ、と、身体と擦れたソファが鳴った。
「しっかりしろ。身内が足を引っ張ってどうするんだ? 犯罪に関わっているのかどうか以前に、参考人として事情聴取を受けている時点で馬鹿でかい被害を被っちまってんだからよお、ほら、なんやった、あんたの妹が所属しているグループの名前……えぇっと、ほら、あの、なんや。〈フレグランス〉やったか?」
「 !」
 アカリの顔が浮かぶ。
 アカリと同じ〈フレグランス〉に属するメンバーの顔も脳裏をよぎる。
「所属事務所も、場合によっては対応を協議しなきゃならなくなるだろうが。そういった周囲のことも考えて、充分に思案してから一語一句丁寧に発しろよ。わかったな?」
「発……しろ?」
「これからおれが問う、質問に対する回答の仕方に十分注意しろといってんだよ。わかったか。わかったな?」
「…………」
 はい、と、ひとこと。
 ひとこと返すのが精一杯で、頭の中はアカリのことでいっぱいで、もうしわけない思いでいっぱいで顔をあげられず、暴れ回る胸内の異物をおさえつけるために手に、指にますます力が入っていく。森村刑事のいうとおりだ。わたしはアカリをサポートして、応援してあげなきゃいけない立場なのに、それなのに迷惑をかけて、こともあろうに殺人事件の重要参考人になっているだなんて――わたしは、わたしは決して、
 佐倉めぐみさんを殺していないけれども
「ったく。やっと自分の置かれてる状況が理解できたって顔になったな」
「…………」
 なにをやっているのだろう。
 なにをやっているのだ、わたしは。
 昨夜、父と話をして誤解に気づいたばかりだったのに。
 悔いるとともに家族に感謝して、あんなにも幸せな気持ちで――幸せ? 幸せなものか。過信していたのだ。わたしはまた調子に乗って性懲りもなく勘違いして身の丈以上の言動に及んで、このような結果を招いてしまったのだ。胃のあたりの痛みが増す。身体と精神があらぬ方向へ捻れていこうとするのを必死でくいとめる。思いだしてしまう――愚かしいことを次から次へと思いだしてしまう。愚かしくもわたしはイチイさんの技能に並んでいるような錯覚をして、真似事をして、偉そうな口までたたいてしまっていた。
 ――どうしよう。
 どうすればいい?
 アカリからすべてを奪ってしまうかもしれない。
 わたしのせいでアカリはすべてを失ってしまうかもしれない。
「あれ? 聴取をはじめていたんですか、森村さん」
 出入り口の扉が開いた。
 はじめて見る刑事さんが室内へ入ってきた。
「なんだよ、もうきたのかよ」不愉快そうな口調で森村刑事が答える。
「もうじゃありませんよ、探していたんですよ。森村さんがいなきゃ聴取をはじめられませんから、あちこち探し回ったんですからね。というか、勝手にひとりではじめないでくださいよ」
「まだはじめてねぇよ」
「失礼しますよ、森村さん。横に座らせていただきます」
 断りを入れて、部屋に入ってきた刑事さんがソファに腰を下ろす。その手には透明の袋に入れられた証拠品と思しき白くて薄い、紙切れのようなものが握られていた。
「どうもはじめまして。柊シュリさんですね?」声のトーンが低く威圧的なものへと変化した。刑事さんに名前を呼ばれて背筋が伸びる。拳を握り締める。手のひらはひどく汗ばんでいる。「柊さん、筒鳥大の〈イロドリ〉というサークルをご存知ですか」
「え?」いけない。
 また、え、と口にだしてしまった。
 森村刑事の反応を窺う。視線は下がっていた。森村刑事はテーブルに並んでいるわたしの所持品に目を向けていた。視線の先にはアカリのDVDがある。いや、そんなことよりも、サークル? イロドリ?
 顔を戻して刑事さんと向きあう。
 質問に答えなきゃ。
「サークル……ですか? 筒鳥大学の?」
「調べれば調べるほど、悪い噂ばかりが聞こえてくるサークルでしてね。〈イロドリ〉です、カタカナで〈イロドリ〉。ご存知ですか? いかがでしょう」
「いかがでしょうといわれても……」どうしていまこのタイミングで大学のサークルを知っているかどうか尋ねられるだろう。
 返答に窮(きゅう)していると、刑事さんが手にもっていた透明の袋をテーブルの上に置いた。
 袋に目を向けようとしたが、話しかけられたので顔をあげて、刑事さんを見つめる。
「昨夜、木屋通りで飲食していた大学生五人が救急搬送されたんです。ひとりが死亡し、まだ意識の戻っていない者が二名います。彼らはハートショットと呼ばれる強力なドラッグやマリファナを店内で吸引していたようでしてね……搬送された五人全員が〈イロドリ〉のメンバーだったんです」
「五人全員……」
「柊さんに確認していただきたい〝それ〟は、搬送されたひとりの財布の中からでてきたのでして――」
 それ、といって、指差された透明の袋へ目を向ける。
 柊珠里。
 まず目にとまったのはわたしの名前だった。袋に入った白い紙に記されている、わたしの名前。
「あぁ…………」
 名刺だった。わたしの、樫緒科学捜査研究所の名刺。
 少人数にしか渡していないので、名刺の出処(でどころ)は容易に想像つく。
「いかがです? 〈イロドリ〉というサークルをご存知ですか」刑事さんが問うた。
 知りはしないが、所持していた人物の顔と名前は思い浮かんでいた。
 オリバー・ウィルソン。
 胃のあたりの痛みが益々高じてきた。

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