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長期間の愛情関係で距離を置きたがる相手との接し方について

2日連続の投稿は久しいですね。
今日は朝起きたら頭痛やら腹痛やら身体中あちこち痛く、午前休を取得しました。タイには傷病休暇というものが有給の他にあるのでそれを利用した形です。
現職も後1ヶ月でおしまいなので使えるものは使って次に備えるに限ります。

さて、今日はタイに来てから一人の時間が多くて最もよく考えていたことについて話したいと思います。1年以上考え続けた経過報告のようなものです。

今日は・・・
「愛について」

1年考えてきた「愛」というテーマに合わせるように、
その手のケース問題が突然舞い込んできました。

20年目に突入した幼馴染が突然
「距離を置きたい」と言ってきたとき、
一晩中どうするべきか考えた


では少し寂しい気持ちを抱えて記事に参りましょう。

幼馴染に距離を置きたい(置いている)と言われた時の所感

タイムリーにも昨日20年くらい連れ添った幼馴染に「お節介だ距離を置きたい」と言われてSNSもろもろをブロックされました。
幼馴染は私の一個下で、私が姉のような立場でした。
道で出会って学校まで一緒に行ったのが始まりです。
引用すると余計に怒られそうなので気になったところを抜粋して取り上げたいと思います。

これまでの感謝はあるけど、傷つけられた経験がそれを上回った

幼馴染が距離をとりたくなった理由

これに関してはなにも否定しません。
20年くらいの付き合いで嫌なところが複数ないとかあり得ない話だと思いますし、20年間の付き合いで感謝が全くないこともないと思います。
非常にフラットな意見だと思いました。

距離を取りたいからブロックしてるのにどうしてその距離を詰めてくるの。

幼馴染がメッセージ冒頭で述べたこと

疑問系から文章が始まっています。
これまでの不満を込めた一言としてうまく表されている冒頭文です。
返事はしましたが既読はないので引き続きブロックかなと思います。
後の内容は「目くじら立てないで」とか「余計なお世話」とかって書いてあって、要するに「お節介すぎるよ!」ってこと。に干渉的で世話を焼こうとすることは自覚しているので今回は拾いません。

小学生時代、私が幼馴染と距離を置き続けた

距離を置かれて悲しいとかではなく、この件で思い出したのは私が昔、距離を置いていたことです。
小学2年生の時、一緒に寄り道をしたことがあり、ある時幼馴染がひとりでその道を使って寄り道をしました。
それをお母様に見つかってしまい、咄嗟だったと思いますがそれを私のせいにしました。
この後それが真実ではないと教師と親を交えた面談でわかりその場は丸く収まったのかもしれませんが、私の気持ちはそうではありませんでした。
4年くらい私が無視しました。今の言葉で言えばブロックですね。
当時のことを幼馴染に聞いたら覚えてないと言われたので、今も当時のことを気にしてますし、都合のいいやつだと思ってます。
だから今回の幼馴染が「距離を置きたい」というのも別に責めません。気持ちの整理の時間でしょう。幼馴染も私も社会人になりこの問題はその時より早く収束するのではないかと前向きに考えています。(妹に嫌いと言われたのがショックなのでそう願いたい)

距離をもう一度立て直したことで姉妹のようになれたこと

私の無視が終わったのは、幼馴染のお母様に公園で偶然、声をかけられた時です。

「ELちゃん私のことが怖いよね。呼びかけてごめんね。今〇〇中に通っているのね。うちの子も通うことになったからよろしくよろしくね。もう怖がらなくていいからいつでもうちに遊びにに来て」

お母様はずっと娘の交友関係が壊れたことを気にしていらっしゃったんだと思います。
気持ちがわかったので少し歩み寄ろうかなと思い始めました。
それから時々通学路で会うと話仕掛けるようにしました。
こんな感じで徐々に距離を詰めていって大好きにはならなかったけど、
関係が知り合ってから10年くらい経って、姉妹愛のような感情が自然に湧き起こりました。
最近だと、幼馴染も私のためにパンケーキを作ったり、私が誘った自動車の教習訓練に通ったり、私のことは好きじゃないだろうけど深い愛情を感じていました。

このケースにおける私の解決策

全くもって本人は言ってないのだけど、考える時間が欲しいという意味にとらえました。
幼馴染も社会人となり、学歴やクラスのヒエラルキーを意識しなくても良くなり、自分の意思で職を見つけ自立できる大人になりました。
私の見解ですが高校生や中学生時代よりも今の生活のほうが幼馴染にはあっており、充実しているように見えます。
長い関係においても、その中で考えが変わるのは至って健全でしょう。
私の方も「責任転嫁してくるから嫌い」という感情から「妹のように思う」というところまで極端に変わったのですから当然です。

古い洗濯機の例

今幼馴染には素晴らしい友達や同僚がおり、今後私の存在は彼女の中で徐々に霞んでいくのだと思います。
私は離れていくのが寂しいけど、苦しいとは思わないし、人間の本能として、より良い方へというのは自然な流れで、いろんな人を見る中で私の嫌なところが目立ってきたり、私が同僚や友人に勝る価値を提供できずにいたから仕方がないと思います。
古い洗濯機の例を出します。
買った時はピカピカで、先代のものよりも性能が良いのですが、10年くらい経ってくると画期的に能力が上回り価格も同等な新製品がたくさん登場しますよね。
一方今使っているものは古くて性能も低い、他の製品と比べて見劣りするところも出てきたと感じ、金銭的に余裕があれば買い替えるはずです。

人は永遠の愛のようなものに惹かれますが、理想の誰かの代わりを長く使い続けていても、その人は理想の人物になることは永遠にありません。
私たちのような20代中盤という年齢において結婚や出産や転勤で人間関係は大きく変わります。
これも自然の摂理と受け入れるのが良いでしょう。

一方で人はレトロ家電だったり懐かしい景色に惹かれることもある、故郷や青春時代、当時の仲間は突然恋しくなるものです。
その時が来たら、私の出番かもしれませんね。
今回のメッセージで察することは多かったのでお節介を焼かず、邪魔をしないでおきます。

読者の皆さんへ

最後に読者の皆さんにメッセージです。
お子さんとの関係が悪い、兄弟との関係が悪い、夫婦の仲が悪い、親友との関係が拗れた、皆さんそれぞれ悩みがあるかもしれません。
今上げたのは友情関係を超えた「愛」が繋ぎ止めていた関係です。
「愛」というのはいつも同じものではなく、機嫌があります。
私は以前「愛」は普遍的なものだと思っていましたが、
「愛」そのものは実態をなさず、
「期待に応えたい」「期待に応えてほしい」という感情の関係が成り立てばそれは「愛」だと思います。
「期待に応えられなかった」「期待に応えたくない」「期待しなくなった」「期待されなくなった」という状況は「愛」において機嫌が悪い状態です。
これを修復することは、より強い期待でも誠実さでもなく
「時間」と「対話」ではないでしょうか。
「時間」を待って、「対話」を重ねる。「対話」はどちらからしても良いですが、時が経ったかどうか遠ざけられた側はわからないので、明日が話し出すのがベターかと思います。

「愛」が厄介なのところは苦労を乗り越えるたびにマイナスにもプラスにも強くなるところです。期待が大きくなればなるほど失望が大きいということです。
私と幼馴染は20年の付き合いです。お互いの嫌いなところが山ほどありますが、「愛」だけで20年間やってきました。
今は機嫌が悪い時です。お互いに生活が大きく変わり待つべき適切な時です。
このまま燈が完全に消滅することもありますが、その時は絶望することなく自分が期待に応えたいと思う他の人に割合多く愛情を注げばいいことです。





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