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「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」という本から日本人について考えた(1)

常日頃読んでいるブラックアジアというサイトの無料公開記事で「ひ弱な男とフワフワした女の国日本」というどぎついタイトルの本が紹介されていた。

引きこもりも日本人である以上、私たちは誰でも彼らとは無縁ではないのだ」(ブラックアジア - 鈴木傾城)

※ブラックアジアは鈴木傾城氏によるアジアや日本の苦境についての同氏の見解記事で構成されるサイトで、不快感を呼び起こすショッキングな記事も含まれますのでご注意ください(特に女性の方にはおすすめしづらい内容が多く含まれます)。

なんとなく最近出た世相批判本かと思いきや、刊行されたのはなんと1997年である。Amazonの書評を見る限り、とても中立的な内容ではなさそうで、イギリス的観点から日本人のメンタリティや文化慣習を皮肉ることが動機のように思われる。「読んでいて単純に腹が立つ」という感想も多い。注文したので、届いたら私も中身を確かめてみたいと思う。

上記記事では読者からも「最近は弱い自分や社会に適応できない自分の状況を告白する本を出して、共感して喜んでもらっている。これでは日本は駄目だ」などの厳しい意見があることにも(中立的に)触れられていた。

さて、日本人は果たして「ひ弱でフワフワした、頼りない人たち」なのだろうか?

これについて様々思うところがある。この仮説についての私見は後日の別記事で言及するとして、まずは前提となる日本人の平均的な気質について自分なりの考えを述べたい。これは私見に過ぎないので、異論もあると思う。

日本人の特徴について考える

日本人の平均的特徴について私個人としては以下のように感じている。

A. 探究性(勤勉であり、道を極める事自体に生きがいを見出す)
B. 情緒性>論理性(論理よりも情緒で相手を理解・説得しようとする)
C. ハイコンテキスト性(日本人同士でのみ理解し合える細微な意思伝達)
D. 同調性(構成員間の同調により秩序を保ち、そのために同調を求める)
E. 仮想性(物語や仮想の世界で遊ぶことを好み、また豊富な文化がある)

ひとつひとつ見ていこう。

A.探究性について

日本人は「道を極める」ことが好きだ。伝統文化だけでなく半導体産業などもそうだ。1980年代、日本の半導体産業は自動車と並び、世界の頂点に君臨していた。当時の日本の無敵ぶりは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という書籍でも紹介されている(実際は「日本の強みを欧米も取り入れよ」という啓蒙書であった)。しかし、プラザ合意による貿易・為替ルールの見直しから始まり、投機熱によるバブル崩壊、少子化が続いたことによる人口ピラミッドの反転などの強烈な逆風が吹き始めると、日本はそれまでの「改善型・付加価値・ハード重視」戦術では対応できなくなる。

半導体産業ではエルピーダメモリルネサスから最近ではキオクシア(近い分野ではジャパンディスプレイ)まで、個々の企業ではもはや勝ち目がないと官民が力を合わせて立ち上げた代表的プレイヤーまでが息絶えるか劣勢に立たされている。(エルピーダメモリは2012年に破綻。ジャパンディスプレイは長い赤字から抜け出せず、キオクシアも赤字でIPOの難航や海外資本からの買収の噂が絶えない不安定な状況にある。ルネサスは昨年末ようやく黒字化したが、今度は工場が火災に巻き込まれたりと試練が続いている)

部分的に圧倒的シェアを持っている国内企業は存在する。しかし、そうした企業もその強みとするのは、レジスト塗布や洗浄、ダイシングなど、半導体の製造工程における一部の「匠の技」の部分であり、主戦場である半導体設計や半導体の製造技術の大部分を仕切る存在ではない。

海外の半導体メジャーが見据えるのはそうした部分工程ではない。半導体設計や製造技術全体で圧倒的な強みを持つことで、半導体産業の外でのビジネスへの影響力を拡大するという、そこにあるのはより高い意味でのビジネススケールである。ここ数年ではさらに米中覇権戦争という文脈までが加わって業界再編の荒波が続く。

日本勢もそうした大局的なビジネス視点がないわけではないが、行動としてはうまくそれができていない。匠の技の領域でしか優位性を示せず、世界の業界再編の荒波に一方的に翻弄されるような状況にある。

ビジネスだけでなく、スポーツや文化、様々な分野においても、その道の技術そのものが国際的に普及し、海外の台頭を受けることもあるが、それだけでなくルール自体を組み替えられて劣勢に追い込まれることが日本はとかく多い。

柔道などの日本古来のスポーツのルールにせよ、日本文化のビジネス権利にしても、技術自体ではない戦略面でやられてしまう事例は挙げればきりがない。これは日本人の気質として、ルールや権利といった本質よりも闘争に関わる部分を先んじて考えるような発想がそもそも薄い点もあるだろう。

B. 情緒性>論理性

劣勢にかこつけて、後付けで論評することは容易い。アジア勢の台頭や日本経済の衰退、働き手の減少など、逆風要因は数多くあり、必ずしも日本人の気質のみにその原因を見出すことには無理がある。なにしろ80年代までは行き過ぎるほどに、日本はそれで勝利してきたのだ。

これは日本勢の能力(地力)の問題ではなく志向性にある。探究型に向かいやすく、ビジネスロジック全体としての将来展望を明確に掲げ、皆を巻き込んで実行し具現化する、ビジョナリー型のリーダーシップを取ろうとするモチベーションが薄い。これは今の情勢に明らかにマッチしていない。

同じテック企業でも、日本の代表的企業が発信するメッセージと、Apple, MicrosoftやGoogle, NVIDIAなどのCEOたちが基調講演で語るメッセージの具体性を比較すれば、それは明白だ。
(そもそも日本企業の社長が基調講演の場を作り、聴衆に自ら伝道師のように語るかけることができているケース自体が少ない)

ソニーですら最悪期は「One Sony」、銀行業界であればみずほ銀行も「One Mizuho」、つまりは「一社一丸となって」というスローガンを掲げていた。これについては、意識統一すら課題であったというそれぞれの当時の深い事情も確かに存在した。しかし日本の代表的企業が外部発信するスローガンが、ここまで具体性に欠ける精神論な掛け声に終始してしまうところに日本人気質の弱点がある。

GAFA(ちなみに欧米ではすでにこうは呼ばず、FANGMAN(牙の男)、またはT(Tesla)を加えてFANGMANTである。日本も早くこちらの呼び方にしないと潮流を見失うのでは?)のような多国籍企業であれば、形而上的な経営方針やロジックを簡素な図にまとめ、ごくシンプルに、しかし力強く印象的に、感情さえ込めて熱っぽく語ることで、明確に従業員や株主にメッセージを伝える。ロジカルだが分かりやすい構図や語り方をもって、社員たちの意識をまとめるスタイルだ。全ての海外企業がそうではないが、文化背景の異なる世界各地から様々な人材を集めて組織される世界的な多国籍企業においては、必然的にこうしたロジカルな戦略に落ち着くことになる。これが日本型の企業は未だに苦手だ。

C: ハイコンテキスト文化

なぜ苦手なのかといえば、これまでそのようなことをする必要が基本的になかったからだ。今はそうでなくなりつつあるが、かつての日本は単民族国家の性質が強かった。アイヌや沖縄、在日アジアの人々など、一部しこりは存在したが、基本的にはその前提を元に日本の組織は意志疎通を図ってきた。そこには日本の文化・日本の精神的慣習という暗黙的知識があることを前提にしたハイコンテキストなコミュニケーションがあった。敬語の使い方や日本式のビジネスマナー、商習慣。これらができない人間は出世できなかったし、ビジネスで通用しなかった。この規律に順応できなければ十分な待遇は得られず、その能力の欠けた人たちは、それとなく窓際や社会の隅に追いやられた。

我々が使う言語「日本語」もそれ自体ハイコンテキストな要素がある。敬語一つとっても、尊敬語のみならず謙譲語なるタイプがあり、さらにどちらでもない丁寧語、さらには話題の中に登場する第三者について目上目下の表現のための体系すら存在する(ここまで日本語の敬語に使い分けがあるとは私も知らなかった)。とかく、どのようなときでも「この人は目上か目下か」を判断して機敏に適切に、使い分けが必要になる言語である。効率を至上とする現代において、今や日本語はたいへん思考コストがかかる、ひどく疲れる言語なのだ。近年では日本人の間ですら謙譲語の運用が怪しくなり、使われなくなってきている。

疲れるのは語彙の多さだけではない。この人に敬意を称すべきか、へりくだった表現にすべきかは、相手だけでなく文脈にも気を配って判断しなくてはならない。新入社員が礼儀作法で最初にぶつかる壁はもちろん、得意先やお客様に対して上司の名前を呼ぶのに敬称を使ってはならないという慣習(相対敬語)だ。たとえ自分にとって雲の上のような自社で一番偉い人物であろうとも、得意先の前では「~~社長」でなく「社長の~~」と呼ばなくてはならない。ベンチャーであればまだしも、ある程度の規模の会社であれば、これらがスマートにできなければ組織人としては半人前ということだ。ちなみに韓国では異なり、あちらは絶対敬語である

参考:絶対敬語と相対敬語について(旅する応用言語学)

それぞれの国に経緯があり、現代の事情だけを持ってその国の言語の価値を測るのは酷かもしれない。ともあれ、こうしたハイコンテキストさが必要になった要因としては、日本が割と早く長期の平和を構築することができたからではないか、とも、父系社会を中心とした序列化による秩序が長い間続いたからではないかとも、様々言われている。

江戸末期の倒幕運動の末、江戸幕府が打ち倒されても、明治政府が比較的速やかに樹立し機能することに成功した。これは我が国に天皇という、武力によるパワーゲームを超越する世界最長の精神的権威が支配体制移行の正当性に貢献した点が理由として指摘される。しかし、江戸幕府による260年以上の長きにわたる平定の期間が、民衆に広域の同化意識をある程度もたらしていたことも無関係ではない。江戸時代から、日本人というコンテキストの芽は始まっていたと言える。

下剋上や社会がひっくり返るような社会動乱が少なく、各勢力同士の政治的な交渉でことが収まる社会が長く続けば、組織や社会内での上下関係のつけ方は実力行使(武力などの荒事)に頼れなくなる。それでも組織である以上、機能するにはある程度の階層化、つまり序列化が必要となる。そこで必要となる差別化として、細かい慣習・しきたりと目上・目下を常に意識させつづける言語が必要とされたのではないか、という指摘もなされている。

日本のこうした社会のしきたりやルールは、大手企業やビジネスで辣腕を振るっている人間でも知らないようなものがまだまだある。ビジネスマナー講習に出てみれば、講師たちからそれこそ「一体どういう経緯でそんなものが編み出されたんだ?」と思うような細かいルールを色々と教えてくれるだろう。それも、荒事がそうそうできない平和な日本で、主には権威側が社会の序列を進めるために編み出した知恵だ。出世したい人はありがたく聞いておこう。

芸能やお笑いの世界ですら同様だ。その業界の存続期間が長くなり、参入者が増えて過当競争になれば、純粋な実力だけで成功することは難しくなる。すでに大御所が君臨しており、彼らを筆頭に独自の規範が作られ、その規範は歴史や規模とともに複雑化・ハイコンテキスト化していく。若手はその中での社交儀礼を器用にこなさなければならず、下手に歯向かえばチャンスを得られなくなる可能性がある。

D. 同調性

かくして、日本人は「場に裁かれる」ことにますます怯え、何をするにも脳内で「今これをしたら場にどう思われるだろうか」と事前シミュレーションをしなければ動けない民族となった。あまりに日常的に行っているため、その計算は最適化され表層意識ではなくもはや無意識下で瞬時に行われるようになって自覚しにくいくらいである。

次の参考記事をご覧いただきたい。

参考:なぜ「ミスしても味方に謝らない」のか…「神」と海外選手の真の関係性とは【サラーの祈り】(Sports Graphic Number Web)

 たとえば、決定的なシュートを外したとき、パスミスをしたとき。
 僕たち日本人の多くは「味方に謝る」ことを選択します。そうした日本人選手の姿は、すぐに思い浮かぶのではないでしょうか(反対に外国籍選手が即座に謝っている姿は想像がつきにくいのではないでしょうか)。ほぼ無意識に、周囲に対して、自分の失敗であることを表明します(小学生から社会人まで、試合中に「ごめん」とか「わりぃ」がこれほど頻回に往来するのは、日本サッカーの特徴的な光景のように思います)。
 ここで考えたいのは、この時に僕たちを裁いているのが「場」である、という点です。周囲に対して謝る、の周囲とは監督でありチームメイトですが、実は日本人的な「場」を形成するのは個人ではなく「空気」です。僕たちのミスを裁くのは、名前を持つ個人ではなく、その総体である「場の空気」であることが多い。

一般の人達に比べ、自信に満ちているはずのプロサッカー選手でさえ、日本人は「場に裁かれる」ことを恐れるのである。

日本のサッカーはリスクを取るオフェンスが弱いとよく言われる。もしこの日本人の「場に裁かれる」ことを気にしてのことであるなら、国際競争力として由々しき問題ではないだろうか。そして、これはビジネスシーンについても同じことが言えはしないか。

「嘆かわしい!」と私もあなたも思うかもしれない。しかし、これは私自身経験があるが、これは我々日本人が表層意識では問題だと思いながらも、ふと気がつくと日常のシーンで無意識に取りがちな態度なのである。

TwitterやYoutubeを見ればいい。国際的な場面で「やらかしてしまった」日本人についての記事や動画で「日本の恥!」と批判するコメントを見ることはないだろうか?
別にその人個人の問題に過ぎず、自国民すべての問題とまでみなさなくても良さそうな事案ですら、わざわざ関連する海外の掲示板に「日本人の一人として大変申し訳なく思います」などと翻訳英語で書き込む人までいる。外国人を殺めた、国際問題レベルの深刻な侮辱行為を行った、などの事案ならともかく、みっともないことをやらかしたくらいで、こうしたことにしゃかりきになる国民は日本人以外でいるのだろうか? これは「裁く場」の一つの発露とは言えないか。

大昔ならいざしらず、様々な角度から情報が得られる現代において、一人や二人の個人のやらかしで、その国の民族の印象が決定的に決してしまうことはない(そうしたがる勢力もいるかもしれないが、その問題は一旦おいておこう)。しかし、私たち日本人は異常なまでに気にするのである。

まさか自分はそんな愚かなことはしない、と思いながらも、気がついたら無意識にやってしまう。それほどまで「場に精神を支配される。支配したくなる」文化は私達の骨身に染み付いてしまっているようだ。

一応の補足をすれば、同調意識や同調圧力は海外の文化にもある。ヨーロッパでもロシアでも中国でもアメリカですら、何かしらはある。しかし日本人の同調圧力は桁が違うほど強すぎる。これが日本の国際競争力を弱めてはいないか。

ハイコンテキスト・同調性には良い面もある

こうしてみると、ハイコンテキストな慣習や同調性は問題だらけのように感じてしまうが、行き過ぎさえしなければ良い面もある。

a. 社会システムそのものが不十分または機能不全であっても、それなりに現場の人達の連携努力で上手く凌ぐことができる。動くべきと思われていたシステムが機能不全になっても、人々が力を合わせて速やかに復旧できる。

b. ハイコンテキストということは、使いこなせる者同士でなら機微に富んだ情報を効率的に伝え合えるということでもある。伝言ゲームの悪しきパターンさえ辿らなければ、これは非常に便利だ。日本型企業が善戦できていた時代は、社員が皆このハイコンテキストな連携力で力を発揮していた面がある。

c. 大体の人たちは同調しているので、やみくみに連携を乱すものは少ない。近年はAppleを大復活させたスティーブ・ジョブズなどのような破天荒な人物像が日本でも尊敬を集めることがあるが、実際こうした人物が多数出てくると、それを統制するのはやはり一筋縄では行かないものだ。膠着した市場のルールブレイカーとなる特異な例が生まれるかもしれないが、そうした荒くれ者の行動により組織が不安定化し、瓦解する危険性も同じくらい高い。

日本が衰退し、ルールを次々と塗り替える欧米や中国などを散々目の当たりにしなくてはならない今となっては、上記のa, b, cはむしろ弱みに映るかもしれない。しかし、少なくともaは自然災害で甚大な被害を受ける我が国の復興に欠かせない国民気質であり、bについても、恩恵を日常の会話やつき合いで無意識に享受できているために、かえってそのありがたみを実感できないだけだ。cの同調気質も治安と公共マナー維持に不可欠である(度を越すと生きにくくなる)。少なくとも80年代ごろまでの世の変化スピードなら、これらの気質は有利に働いた。

問題は、世の中が変化するスピードがこれらの気質では対応できないまでに苛烈になったこと。そして、テクノロジーやビジネス手法の凄まじい進化が、個人間のハイコンテキスト・同調性といった「人の効率性」を完全に上回ってしまった点にある。

海外の人材は、一部の先進国を覗いて、日本人ほど平均的な優秀性を皆が皆揃えてはいないかもしれない。出身によって文化や背景もバラバラである。だからこそ、欧米の多国籍企業ではロジックや数字でコミュニケーションをし、ルールはきちんと明文化する。日本人同士のようなハイコンテキストな意思伝達ができない以上、そうせざるを得ないのだ。もちろん初めから上手く言ったわけではない。しかしその結果、欧米では方法論やシステム化は凄まじく進化した。次々と新しい方法論が生まれ、実践され、効率化され、改善され続けたのだ。

一部の先進的な社員がそれらを輸入し、日本で頑張って適用しようとしても「方法論?そんな形のないものに頼ってどうする。あいつらお得意のビジネストークだよ」と一蹴され、現場の経験が結局は優先され、導入にいつも失敗してしまう。なぜだろうか。

日本の現場では、人によるハイコンテキストな人海戦術でこれまでなんとか(死にそうになりながらも)乗り越えてきた確かな「実績」があるためだ。そうした経験者からすれば、方法論など机上の空論に見えてしまう。多少なりとも物がわかる人であれば、何かしら有益そうとはどこかで思っているかもしれない。しかし、試してみようという気にまではならない。そもそも日常の仕事をこなすので精一杯なのだ。気力も出ないし、余力もない。確かに導入できれば状況が大幅に改善するのかもしれない。「でも、誰が仕切るんだ?俺か?いやいや…」というのが現状ではないだろうか。仮に導入しても切羽詰まってやはりうまくいかないとなると、プロセスを改善するのでなくすぐ人海戦術に戻そうとする。分からなくもない。褒められたものではないにせよ、長年の「実績」がある。こっちの方が安心だ。

あれだけ大変だった昨年2020年のコロナ危機による給付金事業も、現場の人達は結局はアナログの突き合わせと確認を地道に続け、多くの混乱を乗り越えて結局は見事完遂した。さすがは日本の現場力である(現場の方々、本当にお疲れさまでした…)。現場力が優れているからこそ、日本の組織は結局は現場力に頼り、そのしわ寄せで現場の人達が過労死したり、うつ病になると言われても仕方がない状況に日本はえてして陥りがちだ。

参考:10万円給付のトラブル多発で混乱、庄司昌彦教授が語る「自治体デジタル化」の重い課題 - 弁護士ドットコム 

日本のIT産業はもちろんだが、ここまで情けない理由ではないにせよ、アプローチの違いによる形勢の逆転という文脈では、長らく日本のお家芸と言われたきたビデオゲームですら、これに近いことが2000年代から起きている。
21世紀に“洋ゲー”でゲームAIが遂げた驚異の進化史。その「敗戦」から日本のゲーム業界が再び立ち上がるには?【AI開発者・三宅陽一郎氏インタビュー】 (電ファミニコゲーマー)

要は、日本はその平均的な個人の優秀性とハイコンテキストなコミュニケーションに頼りすぎたため、サイエンスや方法論などのロジックによる進化を進められず、その進化にとうとう成功した海外勢についに負けてしまった。こうした事情が多くの産業や行政で見られる、ということなのだ。

E. 仮想性(物語や仮想の世界に住むことへの憧れ)

最後に、仮想性(ファンタジー)である。具体的に言えば、アニメやマンガ、ライトノベルはもちろんアイドル文化、ビデオゲームといったもの。いわゆるジャパン・ソフトパワーと言われる分野は分かりやすい例だ。近代よりも以前から、歌舞伎や日本画などのかつての大衆文化に、その精神性の芽を見ることができる。文学や俳句・詩も同様に盛んであった。

平たく言えば日本人は昔から、仮想のストーリーの世界に没入し、自由に泳ぎ回るのが大好きなのである。

どうしてそのような精神性の芽が生まれたのかは、私もわからない。民族学の研究などを探れば、なにか手がかりがあるかもしれない(なにかご存じの方はぜひご教示ください)。いくつか、説明を試みる記事は見つけることができた。

参考:なぜ日本に「マンガ・アニメ文化」が生まれ育ったのか(上)(Yahooニュースオリジナル)

兎にも角にも、日本人は仮想世界(ファンタジー)が大好きである。疲弊現場とずっと言われているアニメ制作の現場から、今もなお毎年新作が作られ放送されていることからもそれがわかる。アイドル文化も盛んで、これもアイドルとの擬似的な恋愛や憧憬を夢見る点で一つの仮想の世界である。近年ではいわゆる「推し」を命がけで応援するという新たなナラティブまで認知され、その構図がまたアニメの題材になったりまでしている。まったくもって凄まじい仮想性である。

ここ数年でVRヘッドセットが実用化されると、それに世界でトップクラスにのめり込み、活動するのもまた日本であった。UnityUnreal Engineなどのゲームエンジンの普及で個人でもCG技術でキャラクターを作りアバターとして利用することが可能となり、やがてVTuber文化が生まれた。VRChatNeosVRなどのメタバースサービスが海外で始まればいち早く乗り込み、また国内勢でもVirtual CastClusterなど、独自のVR SNS/メタバースサービスが始まるなど数々の試みがなされている。こうしたCG技術を駆使したアバターキャラクターによるライブも大好評だ。

とにかく、日本人は仮想の世界に希望を見出している。また、仮想の世界は一部の人達にとっては娯楽以上に、心の避難所でもある。この頃は特にそうだが、現実というのは世知辛い。経済的な状況はもちろん、学生時代は学校で様々な問題にも遭遇する。

ありがたいことに、日本には豊富な仮想の物語世界がたくさんあった。アニメやマンガの世界の躍動感のある物語に浸り、人によっては「この作品が自分を作り上げた」とか「この作品がなければ今自分はいなかった」と真面目に語る人までいる(私自身、それに近い過去があるのでとても共感できる)

学校や職場という社会の場で辛いことがあったり、上手く順応できなかったとしても、そうした世界について語らう仲間をたくさん作ることができた。それができるほどの母集団と土壌が日本にはあったのだ。

未だにこうした仮想への耽溺(特にアニメやマンガ、ゲームへの耽溺)については一部で否定的・差別的な見方もあるものの、一部の作品は世界の多くの国で支持されるにまで至り、商業ビジネスとして存在感が一般層にまで広まると、今や国内マスメディアにおいてもその扱いは比較的まともなものになった。ビデオゲームにしても、市場がアタリショックを乗り越え世界規模でメインの娯楽の一つになりえたのは、日本での発達が大きく寄与したからである。ゲームもアニメ文化も海外の隆盛が著しいが、現在でも一定の存在感を維持しているのは、結局は日本人がこうしたことが昔も今も大好きだからだ。

しかし、これは別の観点からすれば、国民気質としては弱みでもある。あまりに自由で夢があり、素晴らしすぎる世界であるがゆえ、人はついそこに逃げがちになってしまう。

つまりは、現実と向き合わない生き方ができる。現実の世界は大失敗しない程度にそこそこにとどめ、後は仮想の世界で伸び伸びと生きることができる生き方だ。日本の経済発展によって整備された十分すぎるほどのインフラ、まだ枯渇しきってはいない国としての余力、今もなお世界トップクラスの治安、核家族化をも超えた個人化(お一人様)への移行と追認。こうした背景は全てつながって、仮想の世界に人生の希望を移しやすい動機はますます強まっている。

もちろん全ての人がこうしたコンテンツに人生のすべてを捧げようとしているわけではない。しかし日本人は何かしら、人生の時間の多くをこれらの何かに使っている。世界的にもこうしたコンテンツを消費する時間は増えているが、日本人はその比重の大きさのみならず、これは私見だが、ただの消費コンテンツ以上の価値や意義を、これらの世界に投影している気がする。

このメンタリティの違いは、おそらくフィジカルな現実での競争では不利に働くと私は考えている。VR技術が進展すれば、なおこの傾向に拍車がかかるだろう。こうしたことをいうと、VR(Virtual Reality)の定義は「仮想世界」ではない、という意見は必ず出てくる。私も職業柄、XR(VR/ARなどの技術の総称)の技術を自らプログラム実装する人間であるので、その見解はもちろん知っている。しかし、それはVR上で駆動するアプリケーションやサービスによって、ユーザーにどのような体験をもたらしたいか次第だ。実利的に意味のある体験にもできれば、純粋に物語を楽しむことも可能だ。海外と日本との事例を比較すると、どうも日本は後者にまだ傾きがちに思う。私も好きな分野なので、この傾向そのものの良し悪しを決めるつもりはもちろんない。

しかし、物語の世界も、まずはフィジカル(現実世界の基盤)があってこそ成り立つものだ。それは経済的基盤、生活的基盤、健康的基盤すべての意味においてである。助けにするのはもちろん良いが、依存しすぎるのも考えものだ。

現実世界でもしっかり生きていこうという逞しさも、日本人はどうか失わないようにしてほしい、と私はたまに思う。

まとめ

大変に長大な記事になってしまった。私の悪い癖で、これは自分の推敲力や構成力の不足によるものです。ここまでお付き合いくださった方に深く感謝します。

主に5つに分けて自分なりの解釈を行ったが、これ自体の良し悪しについては正直なんとも言えない。また、有利不利についてはその時代やコンテキストによる、というのが私の考えだ。しかしどうやら変化が加速しグローバル化が進んだ現代においては、一部はたいへん不利に働いてしまっている事が多いように思える。

私達の気質はそう簡単には変わらない。しかし自らを知り、一部を改善し、一部を強みに転化することなら可能かもしれない。それが日本の状況を少しでも好転できればよいのだが。

次回はいよいよ、少々ハードな冒頭の問題作(?)の仮説「ひ弱な男とフワフワした女」について考えてみたい。

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