頭の中の9割が子どもが占めてしまって、なにも生み出せない


その理由は、子どもの行動範囲イコール私の行動範囲となっているからだとうすうす気がついている。

月日を追うごとに子どもの行動範囲は広がり続ける。
そして、保守的な生活を続ける私の行動範囲はジワジワと狭まってきている。

私はライターという仕事をしている。が、そもそも自宅兼事務所。そして子どもの学校や習い事の帰宅時間に合わせたタイムスケジュールを採用している。となるとオンラインフル活用。効率と体力のために外に出ないことが、仕事上でかなり増えている。

なので、平日は主に家の中。もしくは近所のショッピングセンターと図書館をウロウロしている。

仕事も、資料探しも、散歩も、息抜きも、買い物もそこ。家、ショッピングセンター、図書館のトライアングルの中が私の行動範囲だ。

休日は休日で、子どものサッカー部の予定があるので主に小学校にいる。

そして、子どもの行動範囲もその直径1kmのトライアングルに集約されている。

ショッピングセンター内のコーヒーチェーンで昼間私は原稿を書き、夕方には子どもがショッピングセンター内のスポーツ教室に通う。

昼も夕方もショッピングセンターに通う。そして昼も夕方もそこではママ友に遭遇する。日頃付き合っている30人規模の人間関係(ママ友)さえもトライアングルの中での出来事になりつつある。

このトライアングルは、もはやデカい実家だ。私は広義の意味で引きこもっているのかもしれない。

それに加えて、稀に取材や遊びで遠出する場所も、ほとんど子どもと行けるような場所になってきた。

仕事で行く渋谷も、服を買いに行く新宿も、飲みに行く浅草も、食事をする赤坂も、デートをする吉祥寺も、小学生がいたところで不自然な場所ではないし、事実、子どもと一緒に行くこともある(目的は違えど)。
小学生の子どもは私と一緒になればどこまでだって行けるのだ。

31歳の私としては、どこにだって子どもを連れて行けるというのは、とても不思議な感覚でもある。

幼少期に両親と出かける受身側でのお出かけの時に感じた、世界が広がって行く感覚とは逆に、私が主体的に行く場所に子どもを連れて行くのは、たった一人の場所がどんどん塗りつぶされていく感覚だ。

つまりは、全ての場所がかけがえのない思い出の地になってしまった。
どこの場所にいても、もう私は子どもと切り離すことができなくなってしまった。

母とはそういうものかもしれない。陣地取りゲームに子どもが勝ったこたは、とても幸せなことなのだろう。さてこのあと、私の人生はどうなるのだろうか。

これからも頑張ります!