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さみしいまま生きていくことのススメ

わたしは友達が少ない。そのことについては何も思わないんだけど、あまりにも人と会わない日が続くとさみしいなと思うことはある。
じゃあ、誰かに会いたいかっていうとそれはまた別の話。わたしは寂しさや損得から人と会うことを選ぶと後で嫌な疲れ方をしたり、どこかモヤッとした気分が残ります。だから心潤わぬものはできるだけ避けたい。
わたしは本音を話せる人と一緒に過ごしたいのです。

年々、大勢で集まる場所やパーティー的なところには足が向かなくなって、一人で過ごす時間が増えてきました。仕事もフリーランスなので用事がない限り、夫以外の人とはほとんど会いません。でも思ったより大丈夫だし快適に過ごしています。特にここ1年は少ない大好きな友人とたまに会い、風通しのいい少しの仕事をして大切に思っていたコミュニティとも離れました。

それで増えた時間の多くは自分自身と、2匹の猫と過ごしたように思います。それは狙ったわけではなく自然とそうなっていきました。

ひとりさみしく過ごしたからこそ得られたもの

そのコミュニティとは共に過ごしていくだろうと漠然と思っていただけに、離れていくことを受け入れるまでは辛かったですが、ある日突然受け入れたというよりは吹っ切れました。「あーもう、いいや」と。

執着していたのは誰かや何かを自分の上に置いていたから。わたしたちはいつだって本当は自分で答えを導き出せるのに不安や焦り、自信が持てないと誰かに答えを委ねてしまう。

そのコミュニティは愛に溢れる尊敬するものでした。
だからわたしは自分の中の小さな小さな違和感も見過ごしていました。
その小さな違和感に注目したら袖を分かつことになるかもしれないと本能的に気づいていたからです。でも本当は違和感に注目したって離れない時は離れないし、離れる時は離れるのです。
それに離れる時はいろんな偶然が重なり相手からも自然と距離ができるもの。
それはいいことでも悪いことでもなく、ただ時がきただけ。お互い役目が終わったのかもしれません。
そして一度離れても、もしかしたらまた出会えるかもしれません。どちらでもいいのです。

わたしはコミュニティより自分を信じてなかった。
それはわたしのエゴであり、わたしの浅ましさからくるものです。
自信のなかったわたしは、置いていかれるのが怖かった。距離を感じ始めた頃、色々重なったこともあり不安や孤独で自分一人が時の流れから置いていかれたようでした。
でも流れに抵抗することはできず、ただ静かに流されていきました。
その期間は昔流せなかった涙もたくさん流れ、落ち込むことも多く、いつ闇が開けるのかわからずとても怖く辛い日々でしたが、孤独な時間が多く持てたからこそ、それに深く集中せざるを得なかったのだと思います。

自分で感じた答えが大事

ついつい怖れや損得からどこかに行ったり、何かに参加したりして、落ち込んだり疲れてしまって自分を見失うことってありませんか?
その時は必要だったのだろうと思うし、尊敬する人の言うことを実践したり、発言を聞いて気づきを得たことはわたしもたくさんあります。
その先人たちの勇気ある行動や教えには本当に感謝しています。
でも人はみんな違う、だから自分にとっての答えは自分にしかわからない。結局は自分自身で気づかないと腑に落ちません。
それに導いてくれたのがわたしにとってはひとりの時間でした。

さみしくひとりで過ごしたからこそ、焦らずじっくり味わって自分で答えに気づけたことは自分への深い信頼になりました。
暗かったトンネルは、誰もが自分の方法で、自分の力で抜け出すことができると知りました。そう思うとひとりの時間というのは何ものにも代えがたい自分だけの幸せな時間だと思うのです。

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