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可愛いと頭良いは両立する

「可愛くて勉強も出来る、とかずるい、絶対おかしい」という気持ち、感じたことはないだろうか。
私はずーっと感じてきた。
私はいわゆる難関国公立大出身なのだけれど、中学生くらいからつい最近まで、才色兼備な子にひたすら嫉妬してきた。

田舎の中高時代。正直都会と違って、将来への選択肢はすごく少なかったと思う。
勉強をして良い大学に行くか、勉強はほどほどにして働くか、ほどほどの大学になんとなく行くか。
それ以外の選択肢に気がつくほどの文化的資源や雰囲気もない。
閉鎖的な田舎の、自称進学校では「邪神なく地道な努力を積み重ねることが善だ!」という認識がまかり通っていたし、事実うちの高校ではイケてる子=ちょっと勉強は出来ない、みたいな図式がまかり通っていた。
勉強を優先するあまり、文化祭も半日のみ、出店するのは文化部のみ、それも店とかではなく部活動の成果の発表のみ。生真面目に部活動は強制されていて、そこから学校から真っ直ぐ帰宅して勉強。休みの日は部活以外家で勉強。青春らしいイベントはほぼ皆無だった。
集まる人間の分母も小さく、大学と比べたら何でも器用に出来ちゃう優秀な人間の分母も小さかったのは事実だろう。

しかし、ボサボサの髪、眉毛、垢抜けないファッションで関東の大学に入学した私はカルチャーショックを受けた。
もっとイケてる格好をして、たくさん青春を楽しんで来た人間が同じ学部やもっと難易度の高い学部にわんさかいたのである。

正直許せなかった。
そういう子には首都圏の子が多くて、私が物理的に得られなかった環境を享受している場合もあったからだ。
それは質の高い学校がたくさんあって選べること、博物館や最新のお店など文化的刺激に満ち溢れた中で育ったこと、親さんの価値観が古臭くないこと、などなど…。
私の周りにはそれらがなかったし、進学高の高校生に大して金はない。インターネットも高校生になるまでまともに使ったことがなかったから、情報も限られていた。

私は地方では優秀だった自分が垢抜けない凡人に成り下がったことに激怒し、ひねくれた。元々の素質は自分と同じくらいの人もいれば、天才もいた。親が金持ちで塾とか私立の学校で自分の努力以上にたくさんお世話をしてもらった人もいた。
初めて格差を目の当たりにしたように感じた。嫉妬の対象を認められなくて、でも悪者にもなれなくて、がんばって勉強してきた自分とプライドを攻撃して卑下することで他人を持ち上げ、なんとか認めようとした。
こうしてどんどん自己肯定感を見失い、私は負のスパイラルに落ちていった。
こうするとまあ、上には上がれない。落ち込んで、可愛い同期を見て嫉妬して泣いて、自分の今までの努力は何だったのかと絶望して。
そうやっているうちに厭世主義をこじらせ、垢抜けないダメな自分をブランド化して楽しみ、面倒くさい男の彼女になり、どんどん自分の憧れからは遠ざかっていった。

たぶん私には諦めも必要だったし、努力の仕方を田舎式からシフトする必要があった。
残念ながら田舎から這い上がるには、無我夢中で勉強をするしかなかった。
しかし、社会は暗記や問題集の反復で乗り切れるほど単純ではない。
それなりの器用さ、他者に認められる範囲での努力量、という観点も大切になる。

勉強のいいところは努力した分成果が出ることである。親の期待が…という例はさておき、自分のためにがんばった分は自分に返ってくる。

その一方、社会では「他人が欲している努力量」を超えた努力は評価されない。
いくら自分ががんばっても、それが相手にとってどうでもいいものであれば良い反応や見返りは返ってこない。
需要と供給のバランスを見極めることが大切で、片方だけを極めるとだいたい損をする。
だから、まじめにがんばってきた人間が勉強に向けたのと同じ方法で社会にぶつかると絶望する。

さて、そんな私はどうなったかというと、総合職としてそれなりの企業に入社、高卒だらけの職場に配属された。
そして学歴よりも社歴、という環境に来て、勉強面でのコンプレックスがどうでも良くなってしまった。
みんな学歴で悩んでる暇なんか無くて、一瞬一瞬をどう楽しむか、だけなのである。
楽しいこと第一!という環境の中で私は自分だけ生真面目にがんばるのがアホくさくなり、自分も楽しいことをしていいんだ、と悟った。
なんだかんだ仕事ができる人に限って手抜きの仕方を知っていて、24時間全力投球なんてしない。休む時はしっかり休んで遊んで、余裕がある分いざ!という時には最大限落ち着いて力を発揮する。こういう人は後輩の面倒を見る余裕もあるから優しいことが多い。

私に必要だったのは、楽しくがんばってもいいよ、という許可だったのかもしれない。
同じ目的地を目指すなら、そのプロセスは自分にとって満足のいくものを選べるはずだ。

私にとって可愛いと頭良い、の共存は自分の価値観の中に存在していなかったものであり、環境として許可されていないものであった。
だからこそ、それを両立している人間に出会った時、すごくずるい、チートだと思った。
染み付いた価値観が彼らと同じになることを怖がり、自分のやり方を変えられず、彼らの魅力を素直に評価出来ず、怒涛の鬱展開に向かっていった。

でもきっと、難関国公立大に入ってくる才色兼備な人って素が努力家で、色んな方面に努力する能力・器用さと、そういう生き方を選択肢として知っていただけなんじゃないかと今なら思う。違法行為でも何でも無く、私とは努力の使い方が違っただけだ。大げさなことを言えば、彼らよりも貧弱な環境から這い上がってきた私の努力を持ってすれば、彼らと同じ以上にはなれるかもしれないのだ。

今、私は中高時代の自分にもっと楽しく生きても、真面目に生きていくことは出来るよ、と言ってあげたい。
可愛い格好をして、頭も良いっていうのは誰にでも許された道なんだよ。

大学を卒業する直前から社会人一年目の間の一年間で得た悟りである。
もっと早く気が付いてたら、きっとインスタ映えする華の女子大生になれてただろうな。
でも、よくがんばってきたな。


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