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「加虐」と「エロ」の間とさらなる先へーー緊縛写真・映像展「Roca」

まずいきなり持論だが、「緊縛」にまつわる芸術表現はもちろん自由だが、私の中では、その根幹にある美しさは「加虐」と「エロ」なしでは成り立てないと思う。
そこで今回は、カスカベキタロウさんの緊縛写真・映像展「Roca」を、この2つのキーワードの間にあるものを、アート表現を通して探るアプローチとして捉えるうえ、私個人の観覧所感を勝手ながらひたすら語るという内容となっている。

照明は控えめに落とされて、黒幕もかけられており、やや暗い雰囲気の会場。
壁一面にずらりと並べられていた迫力満点の白黒の大判サイズの緊縛写真。
その1枚1枚に近づけていくと、ときには敢えて雑に全身に纒われたり、ときにはシンプルに要所のみにかかられたりする縄が施されており、竹、轡、着物、麻縄などの要素からなる、森の奥地に縛り上げられる女性の悲惨な姿の哀しい美しさに、思わずに息を呑まれてしまう。

それと同時に壁の一面で繰り返し流されているは、展示写真の撮影と同時に撮られたと思われる映像。
会話はなし。縛り手とカメラマンも登場しません。
ただただ、縛られて過酷な状況に置かれている女性の、哀れを誘う様子が次々と現れていく。
あんまりの痛みで漏れる弱い悲鳴、肌を刺すような川水の冷たさで止められない顎の痙攣、窒息しそうなきつい縄で意識朦朧する表情、悲しさ、苦しさ、それとときにはそれらすべてを超越していくような痛みのような、快楽のような、未知なるもの。

私の中では、緊縛はコミュニケーションを前提としているものであり、縛り手と受け手両方不可欠で、ともに作られていくものだと考えている。
よって、この映像を見て一番の衝撃は、映っている女性たちの悲惨な状況を作り上げる張本人が、映像内で不在になっており、撮影の画角もほぼ定点で、無機質と言ってもいいほど、温度を感じさせない第三者視点となっていた。

「余白はアートにおいてアーティストが一番伝えたい部分」という説もあるように、この映像内の「加虐者の不在」もアート表現の一部として捉えるようであれば、
それは敢えて縛り上げて放置して手を出さないという「究極」の加虐行為(異論を認めるが)を意味しているのか、それとも緊縛行為から切り出された、まるで静物画のような、それ自体で成り立つような美しさを求めているのか。
責め手と受け手の気持ちと心情の間に往復してしまう。ただの深読み過ぎなのか、気づいたらずっと考え込んでいた。

映像には、女性たちの息のほか、森の様々な音が収録されていた。一つ一つの映像が始まる前に、真っ暗の画面で森の音が先にはじまって、本来はあくまで自然の一部のものなのに、被写体の姿と合わせて、何故か引き込まれるような悲しみを勝手に感じてしまった。
この映像を踏まえて再度両側の写真を拝見すると、白黒の印刷物からは、気づいたら微々たるな吐息が聞こえてくるような、絶望な眼差しも見えてきたような動くものへ変貌してた。

もしここまでは展示の全てなら、「カメラマン/縛り手はやはりひどい人だよなぁ」という一言でまとめできるかもしれないが(褒めている)、ずるい企画側は、この小さな展示場の中で、もう一つの罠を設置してた。

先程の映像の投影幕の向かい側で行われている、レトロ感満載のスライド映写機によって一枚一枚切り替わって映されていく写真展示。
冷たい白黒の世界とはまったく別物のような、懐かしい機械音とともに浮き上がってくる、やや温かい黄みを帯びたカラー写真たち。
一見全然関係ない作品のようだが、よくよく見ると登場してたモデルさんが現れたり、登場しなかった縛り手の一部や後ろ姿が映されたり、撮影前後の準備シーンや合間の笑顔、なんか微笑ましい温かみのある内容みたいだった。
とホッとしていたら、突如先程の白黒写真のカラー版が出てきて、「この森の深い緑と、着物の温かみのなんという美しい色味を白黒にするなんでもったいない」思いを巡らせたら、逆側の映像からの悲鳴と川の流れる音が再び聞こえてきて、心が2つに分かられそうでして、少しの間の気持ちを言葉にすることができなかった。

カスカベキタロウさんの作品は、いい意味で決して敷の高いものではない。難解するようなアート表現でもない。むしろドストレートな表現ばかり。
ただし、よくよく観ていくと、この太もも近くの二つ折りになっていない一本縄、この着物の崩れ方、この川の流れとともに流れる縄尻、この雨音、この木のセレクト、この眩しい光、すべてのすべては、実は綿密に計算されているのではないか、と色々思うと、なんか背中ゾッときた。

とふと会場の中でボーとしてたら、閉場時刻が近づいてたので慌てて立ち上がって黒幕の世界の外へ向かうと、そこにはとてもご丁寧に「来ていただきありがとうございます」とご挨拶してくださるカスカベキタロウさんと、にこにこしながら「本当にひどいですよねー」と微笑むモデルの潤さんがいらして、脳内はまたまた混乱が起こしていた。

「緊縛」「写真」「映像」「アート」「責め」「受け」、これらのキーワードの組み合わせによって生まれた化学反応はとても興味深く、さらに緊縛に関わる人間の責め側でも、受け側でも、撮影する側でも、鑑賞する側でも、それぞれの視点で楽しめられる作品を作り上げていただいていたことに、驚きと感謝しかない。
こんな世界を作ってくださって、ありがとう。


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