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新たな部落問題の課題(7) 「誇りの語り」の意味

黒川みどり氏の『[増補]近代部落史』に、次の記述がある。前々回にも引用したが、あらためて「誇りの語り」が何を意味するのかを考えてみたい。

被差別部落の「ゆたかさ」を伝えることは、被差別部落の子どもたちも自らの存在や自分の住む地域に誇りをもつことができ、部落外の子どもたちに対しても、被差別部落の良さを伝えることで偏見をとり去ることができると考えられて、同和教育や解放運動において、この捉え方は大きな影響力をもつに至る。…しかしながら、被差別部落の「ゆたかさ」を伝えるということがひとり歩きし、一方で、被差別部落がいかに差別されてきたかを語ることがあたかも部落解放に反することであるかのように受けとめられ、それをことさら裂ける態度も生じてきた。

たしかに“誇り”は、当事者の自己肯定感を育み、差別の原因ともなりかねない負のイメージに対抗し、差別への異議申立てに駆り立てる役割を果たしてきた。

…しかしながら、教育・啓発の発信者が、しばしば安易にステレオタイプの「誇りの語り」に寄りかかるのは、差別の歴史や実体に踏み込むよりもはるかに“安全地帯”に自らの身を置くことができるからではなかろうか。そのようにして生みだされる「誇りの語り」は、なぜ部落差別が存在するのか、なぜ同和対策事業が必要だったのかという理解には及ばない

文化や芸能、皮革業や治安維持などの面で、賤民(被差別民)が社会に重要な役割を果たしてきた事実は「当事者の自己肯定感」を育む。従来の「貧困・悲惨・差別」というマイナスのイメージを払拭するに十分な歴史的事実であろう。過去に「誇り」をもつこと、先祖を「誇る」ことは自らのルーツを受容し、末裔として生きるためにも重要であろう。

しかし、被差別民たちが「社会に役立つ仕事」と自覚し、すばらしい芸能や犯罪人を捕縛する技術を磨き、日本文化に多大な影響を与え、あるいは村や町を守ってきたとして、その時代やその場所によっても異なるだろうが、権力者(支配体制)や周囲の人々(百姓や町人)は彼らをどのように認識していただろうか。
自らの仕事や役割を「社会に役立つ」(使命感)と<誇り> に思うこと、そのような先祖の姿や生き方を<誇り>に思うことと、社会(身分制社会)や周囲(百姓や町人)が彼らを差別(賤視)していた事実は<共存>していたのである。

極論を述べるならば、タイガー・ウッズが偉業を成し遂げて人々から尊敬されていても、彼は「黒人」である。彼は「人種差別」を受けないかもしれないが、「黒人(人種)差別」は歴然として存在する。
同様に、自分の村を守ってくれる<その人物(たち)>には感謝していたかもしれないが、「被差別民(穢多・非人)」として「差別」していたのも事実である。岡山藩でも、武士がお咎めを覚悟で「照葉歌舞伎」を見に行っている。岡山だけでなく大阪周辺にまで興行に行くほどすばらしい芸能であっても、演じているのは「非人」であり、「山の者」と呼ばれ居住地も制限され、彼らへの賤視観は強い。

「社会に必要とされ、役立つ仕事」を立派に果たしていた「祖先」を「誇り」に思うことは自らのルーツを確認し、祖先のあり方に「誇り」をもって「今を生きる」ために大切なことであり、また、その実像を人々に正しく伝えることは重要である。だが、それだけで部落差別が解消するほど単純ではない。その時代(たとえば、江戸時代)に「差別がなかった」、あるいは「差別されていなかった」「賤民ではなかった」等々の証左にはならない。なぜなら、彼らが「差別されていた」事実(実態)が史実に残っているからである。

「身分差別」の中にあっても、自らの「役目」「立場」「責務」を自覚して担ってきたという歴史的事実(部落史像)こそが重要なのである。つまり、「差別」と「誇り」は別のことなのである。


『村を守る-古文書に映る江戸時代の警固役』(山県東中部部落解放史研究協議会)に広島藩の警固役に関する説明(「はじめに」)がある。少しまとめておく。

広島藩では「かわた」と呼ばれた被差別身分の人々には「かわた役」が設定され、「かわた役」は「警固役」が中心であり、副次的に宗教性の強い「芸能」(「門ひらき」など)、軍需産業としての役割もあった「皮革業」の、3つの仕事から成り立っていた。

「警固役」とは治安を守る仕事で、現在の警察の仕事に当てはまると考えてよい。日常的な見廻り、神社の祭礼などや収穫時期などで警戒が必要な場合の臨時の見廻り、盗賊等の探索・逮捕・取調の警護や牢番、処刑にあたっての警護などが含まれる。

広島藩では、1630(寛永7)年に在郷の牢舎番が「かわた」の職務とされたことが「かわた役」設定の第一歩で、1672(寛文12)年に広島牢を破った重要犯人の探索に領内の「かわた」が動員されたことによって治安維持の組織化・制度化が確立したと考えられている。組織化にあたっては、治安を守る必要度の高い所から設定・組織化が行われ、城下周辺および主要都市、主要街道の藩境が重点地区と考えられる。
1630~40年頃より次第に組織化され、1700年前後に完了した。1697(元禄10)年に、近在の四ヶ村が共同で山県郡奥山筋に「役目人」を迎えた。

1819(文政2)年の山県郡には2.2村に1村の割合で、平均3.1戸、23.2人の「かわた」身分の人々が見られ、おそらくは3~4戸が1単位となって、2~3村程度の範囲の「役」を勤めていたものと思われる。この単位は、頭かわた、または小頭かわたによってまとめられ、「かわた頭(広島藩に4名)-頭かわた(1郡数名)-小頭かわた-平かわた」というかわた身分内の指揮命令系統と、「居村庄屋-抱かわた」という村役人からの指揮命令系統の、二重の支配関係のもとにおかれていた。

治安維持の仕事のない(少ない)間は農業をしたり、芸能や皮革業など他の「かわた役」を行ったりしていた。日常の訓練も大切な仕事であった。
この「役」に対する報酬は、江戸時代末期で1日あたり頭かわた約3升・小頭かわた2升5合・平かわた2升くらいである。収穫時の夜の見廻り(1晩5合・50日くらい)や、家毎に出される秋に米1升。夏に麦1升などが固定収入として保証されていた。

この広島藩(山県東中部)の説明はほぼ岡山藩と同じように思われる。「かわた役」を担った、特に治安維持を受け持った者を「役目人」と呼んでいるが、岡山藩では「目明かし役」のことであろう。確かに、治安維持(町や村を守る)は藩にとっても町村においても重要な役目である。必要とされたからこそ藩も町村も組織化し設置したのである。

「迎え入れ」て「報酬」も支払いもしながら、それでも「かわた」(穢多)などに対する<差別(賤視)>はあった。これについて本書は次のように述べている。

身分制度のもとではきびしい差別が存在しました。これは、社会体制(幕藩体制)を守り、支えてゆくための大きな柱として、社会秩序の根幹として、身分制が機能していたからです。このため、江戸時代も終りに近づき社会体制が揺らぐほど、身分制度に対する抵抗運動が強まれば強まるほど、ますます露骨な差別政策が展開されてゆくことになります。その中にあってこの山県郡においても粘り強く着実に抵抗運動が続けられてゆきますが、それを支えているのは精一杯、しっかりと営んでいる日々の生活と、そのことからくる「誇り」だったと思います。この資料集のどの資料からも、村人の生活を守り、村の治安を維持してゆく「役」が「村」と「村人」にとっていかに大切で、なくてはならないものだったかが、そしてその社会的責任を自覚し、「役」を誠実に営もうという「役目人」の仕事に対する気迫が、伝わってきます。一日一日を大切に、精一杯暮らしていくことの中に、誇りがあり、すばらしさがあるのではないでしょうか。そしてそれが、差別の不当性を明らかにし、はねかえしてゆく大きな力の核となってゆくのではないでしょうか。

至極当然、もっともなことを述べていると私も思う。「かわた役」に対する、その役の重要性と責務を果たしている自負心を被差別民が持っていたことも否定はしない。何より報酬を得るための「仕事」でもあったわけで、生活の糧である以上、堅実に果たさなければならなかったのも事実であろう。

だが、彼らを支配していた藩側、社会体制を維持していくことが自らの生活基盤であった武士にとって、さらに彼らを報酬と引き換えに雇っていた町や村の町人や百姓は、「かわた」身分の人々(被差別民)をどのように見ていた(認識していた)のであろうか。

差別とは感情であり実態である。感情が実態を生み、実態が感情を生む。感情は集団心理(社会心理)と相互に作用する。江戸時代は<身分差別>が当然の社会である。差別される者も差別する者も、それを<差別>とは思わない。「差別政策」と認識するのは、現代の価値観であり、当時は社会体制の揺らぎを<身分の引き締め(身分のちがいを強化する)>ことで抑えようと考えたのである。衣服など風俗の規制などをみれば理解できるだろう。
つまり、「かわた役」を立派に果たすことを「誇り」と思うかどうかは、現在の人間の価値観であり判断である。誰しもが祖先の姿、生き様に「誇り」を持つことはすばらしいことであり、祖先を「誇り」に思って、自分の生き方を定めていくことも立派なことである。しかし、過去にとらわれて自らを見失ってはいけない。祖先を過大評価することもまちがっている。「祖先は武士だ」と威張る人間がいる。過去の偉人を祖先に持つから、それがどうした。さらに、江戸時代の身分を持ち出して「武士の末裔」「百姓の末裔」と、祖先の身分で今の人間が規定されると思っている人間もいる。そんなことで他者を見下すことがおかしいのだ。

同様に、治安維持の役目の重要さ、命懸けで村や村人を守る使命感に敬意を払う気持ちと、そのことで「差別」がなかったかどうかは別でことである。繰り返すが、江戸時代は身分制社会であり、身分による差別は当り前であった。史実を歪曲・曲解してはいけない。

「誇りの語り」とは、祖先の仕事(役目)の重要性や社会的責任の自覚から祖先を「誇り」に思うことではなく、きびしい差別の中を生き抜いて子孫へと生命をつないできたことだろう。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。