見出し画像

誰かの感情の責任は取れない。親も上司も、怒るのは依存しているから。

今日は「怒らせてごめんなさい」という言葉は、とても傲慢だ、というお話です。

他人の感情を操ることはできないので、もしも誰かが怒ったとして、その怒りの原因は当人にあります。

どんなに他の誰かや何かがきっかけで怒ったように思えても、怒るかどうかはそれをその人がどう受け取ったかによるからです。

どんなに怒る理由がない状況でも、虫の居所が悪ければ怒るかも知れません。しかしどんなに失礼なことをされても、機嫌がすこぶるによいときなら許せてしまうでしょう。

これはなにも怒りに限った話ではなく、誰かの感情を思い通りに操ることは誰にもできないので、感情を感情として受け取る意識が必要です。

特に感情は伝わりやすい情報なので、意識していないと「何を言っているかよくわからないけれど、なんか怒ってるなぁ」みたいな受け取り方になりがちです。

しかし、「相手が怒っている、とあなたが感じたこと」と、「相手が言った言葉」と、「相手が抱いた感情」はぜんぶ別の話なので、混同しないよう注意しなければいけません。

これらを混同すると、「そもそも相手が怒っていると感じたのはあなたの思い込み」であったにもかかわらず、「相手の言葉=相手が怒った理由」に変換されてしまったりします。

その結果、話の整合性が取れず、「何でそんなことで怒るの?」「そんな話してないだろ」みたいな言い合いになってしまいかねません。

また、相手が怒ったことが事実だったとして、それを言葉に載せたくて載せているのか、できればこらえたいのか、その本当のところは計り知れません。だから、ゼロと見なしたほうが均衡が取れます。


ーーちょっと話が逸れましたが、結論は冒頭の通り。誰かの感情に誰かが影響を及ぼすことはできないので、「怒らせてしまった」という自責めいた感情は、はちゃめちゃに傲慢であり、余計なお世話です。

とはいえ一方で、自分が怒ったことを周囲のせいにする人もいます。あなたが私を怒らせたのだ、と。

例えば、毒親などと揶揄される親御さんの中に、こういう人が多いように思います。もしくは、パワハラじみた指示や罵倒をする上司、でしょうか。

そういう人はただただ子供であり、わがままを言いたいだけなので、温かく見守ってあげるとよいでしょう。無理に相手をする必要はありません。

観察しているうちに、その怒りが完全に気まぐれ=当人にしか計り知れないもの、であることが分かってくるはずです。

あるいは、もしあなたの行動とその人の怒りに何らかの因果関係があったら、それこそ問題があります。

あなたが何かをした時に決まって怒られる、という場合には、その人はあなたに依存してしまっているので、自立したほうがいいよ、と諭してあげられるといいかもしれません。

親子や上司部下の関係ではそれを伝えるのもはばかられるでしょうけれど、「そういうもの」と思うだけでも、少し気が軽くなったりしないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?