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駒込ピポットを盗んだ

中学1年の冬だったか。僕が犯行を行ったのは。

あれは、理科の実験で「紫キャベツの煮汁」を作った日。理科室の窓からは、校庭に積もった雪が見える。朝礼台やサッカーゴールが、埋もれていた。昨夜の大雪の所為か。敷き詰められた雪に、太陽光が反射し、教室を熱くした。矛盾した気温に「身勝手な」と思った。

鍋の中でキャベツが煮込まれており、紫色の汁が出来上がっている。ビーカーに移した紫の液体。僕たちは、駒込ピポットを使い、酢や重曹を垂らす。混り合った液体は、青やピンクに色を変えた。摩訶不思議な出来事に、クラスが色めきだっている。4班だった僕は、理科室の後ろ側の席。教室の全体を見渡せた。実験が終わり、使い終わった駒込ピペットを、全員が洗い出す。

犯行は簡単だった。クラスの連中は、まだ、紫キャベツの変化に、ザワついている。ただの葉野菜に、いつまでも興奮する姿は、滑稽に見えた。女子たちの甲高い声。耳障りだ。その会話に先生も混ざり「もっと凄い実験があるぞ」と自慢げに話している。まさか、僕が「駒込ピポットの赤いゴムの部分」を盗むわけがない、と言わんばかりに、笑っている。

僕は、理科の成績が良い。常に5。ペーパーテストも、90点以下を取ったことが無い。もちろん科学も得意だったが、物理も、生物もである。好奇心が刺激され、理科が好きなのだ。これが要因で、後に「理科の帝王」とも呼ばれる時代が来る。まあ、この頃の僕は、「ただ楽しい」としか、思っていなかったが。

成績が良い僕は、もちろん、この紫キャベツの煮汁の実験の結果は知っていた。皆んなが恋愛や部活などといった、目の前の簡単な刺激に夢中になっている間、1人で教科書の予習をしていたのだ。酢を入れたら、ピンクになる?重曹を入れたら、青になる?知っているさ、そのくらい。いちいち喚くな。お前たちは知らないかもしれないが、その液体、「涙」を入れると、黄色になる。犯行は簡単だった。

僕は、洗い終わった駒込ピポットを、理科室の棚に置き、赤いゴムの部分だけ、持ってきていたバッグに入れた。たった、コレだけの事。授業は何事もなかったかのように、不自然すぎるくらい自然に終わった。自分たちの教室に戻ってからも、クラスメイトたちは色めきだっている。全く馬鹿ばかりで嫌気がさす。

僕は、休み時間「駒込ピペットの赤いゴムの部分」を、ケイに渡した。彼は、別のクラスの友人。彼は、喜んでいた。ケイは、渡した赤いゴムの部分を、何度も何度も握っていた。親指を使い、握りつぶしては放し、握り潰しては離し、遊んでいだ。彼は、とても嬉しそうにしている。良かった。理科室から駒込ピポットの赤いゴムの部分を、持ってきて良かった。

僕は、彼を喜ばせるために、駒込ピペットの赤いゴムの部分を盗んだのだ。


僕は、昔から共感力が高かった。悩んだこともあるが、相手の顔色を窺うのが得意で、微かな表情で、相手が何を望んでいるかが分かってしまう。

僕はケイが、駒込ピペットの赤いゴムの部分が好きなのを知っていた。先日の授業で「すげえ楽しかった」と言っていたのを覚えていたからだ。僕も好きだ。感触が良い。いつまでも握っていたくなる。でも、ケイは、僕以上に好きだった。だから、友達である彼を、喜ばせたかった。

嬉しかった。ケイが喜んでくれて。まるで、ケイが僕を、必要としれくれているようだった。

理科の授業が終わり、帰りの会が始まった。いつものように、帰り支度をしながら、気怠く日直の話を聞いていた。段取り悪く司会をする日直に「いいから早く帰ろうぜ」と目線を送っていると、教室に、理科の先生が入ってきた。先生は「駒込ピペットの赤いゴムの部分が一つ無い」と言っている。クラスが、騒めき出した。みんなが「自分じゃない」と目を丸くするのと同時に、「お前か?」と言う疑いの目線で、辺りを見渡しているのが分かった。「大丈夫」僕は、湧き上がってくる罪悪感を説得した。「大丈夫、バレるはずがない」僕は、理科の成績が良い。授業も積極的に聞いている。授業終わり先生に「並列回路と直列回路をもっと教えて下さい」と言いに行った事もある。授業は終わったのにだぞ?先生は「なんと理科に積極的な生徒なんだ」と言う表情を浮かべていた。だから、大丈夫。絶対に大丈夫。僕は、信頼されている。理科室の鍵を渡されたことだってある。理科クラブでも無いのに。だから、大丈夫。大丈夫。

僕は嘘が上手い。相手に、気づかれず、決して悟られず、自分の意見を隠してきた。皆んなは、僕を「明るい楽しい奴」だと思っているだろう。そりゃあ、そうだ。そう思われていた方が、楽だ。道化を演じていれば、いちいち変なことに傷付いて、一喜一憂せずに済む。そして、明るい楽しい奴の方が、皆んなから必要とされる。このコミュニティで生きていく上で、こんなに楽な方法はない。だから、そう思われるような、行動を取って来た。だから、僕の本音など、誰も知らない。それをしてきた。誰かに指摘されたこともない。自然にしてきた。だから、僕には出来る。この場で、誰にも悟れず、嘘の顔をするくらい。簡単だ。簡単にできる。完璧にできる。

先生は、犯人を探している。生徒一人一人の表情の変化を窺うように、そして舐め回すように見渡している。クラスメイトたちは、犯人じゃないのに、まるで「自分が犯人なんじゃ」という不安を浮かべている。僕は「なんだなんだ?何事だ?」と言う顔をし、一連の状況をこなした。完璧な対応。ふん、このくらい簡単だ。僕を誰だと思っている。先生は「分かった」とだけ呟き、諦めるように教室を出て行った。クラスは、まだ騒めいている。日直は、戸惑いながらも帰りの会を再開した。相変わらず段取りが悪い。僕の心拍数も収まり、日直に「いいから早く帰ろうぜ」と視線を送った。

帰りの会が終わり、クラスメイトたちは、部活に行く者、帰宅する者、教室に残るに者、それぞれの行動を取った。まだ、騒めきが残っているように感じだ。僕は部活に行かなければならない。3年生が引退し、1年の中からも、レギュラーに入れる可能性がある。大事な時期だ。僕は、急いで鞄を背負った。4僕は4班の為、席は教室の一番後ろ。近くにいた生徒たちにだけ「じゃ」と言葉を掛け、後ろの扉から教室を出た。

すると、理科の先生が廊下で待機しており、僕は手招きされた。

鼓動が早まる。まさか、バレたのか?いや、そんな訳がない。僕の表情は完璧だった。バレる訳がない。僕は父子家庭で育った。長距離トラックの運転手をしている親父は、たまに家に帰ってくるなり、僕を叱りつけた。姉はいつも見てみぬふり。親父に取って都合の良い姉。行儀の良い姉。いつも姉だけが褒められた。その環境で育った僕は、人の感情を読み取る癖がついた。怒られないように。バレないように。相手が望んでいる、行儀のいい子に。いつも考えて来た。だから、そんな僕が、この程度の事でバレるようヘマは犯さない。こんな事では狼狽えない。表情には出ない。バレている訳がない。大丈夫。

先生に着いていく。先生の後ろを歩く姿を、クラスメイトに姿を見られた。まずい。あの帰りの会の直後、理科の先生に呼び出された遠藤。「犯人は遠藤だったの?」と疑われているに違いない。しくった。仮に理科の先生が、誰にも言わなかったとしても、今見た生徒が、噂を広める。この中学では、間違いなく、噂はすぐ広まる。まずい。バレれば、部停になる。レギュラー入りを掛けた時期。まずい。親に連絡が行くはずだ。それは本当にまずい。怒られる。親父は金髪オールパック。怖い。本当に怖い。それだけは、それふだけは、どうにか避けたい。どうする?殺すか?いや、でも僕は、理科の成績がいい。理科の先生に呼び出されたことに、違和感はないはず。また、理科の実験の分からない部分を聞きに行っただけ、と思われているはず。大丈夫。その為に予習して来た。大丈夫。僕にミスはない、大丈夫。

省エネのためか、職員室の前の廊下は暗い。何も言わない理科の先生。僕は黙って後ろを歩いた。先生の歩幅に合わせるように、そっと歩いた。

職員室の扉を開けると、驚きの光景が広がっていた。

理科の先生の机の前に、ケイが立っていたのだ。

「クソっ。ケイか。アイツ、ゲロりやがった」自分の過失を反省する前に、ケイを貶める思考が生まれた。醜い感情。理科の先生は椅子に座り、僕たちの顔を見上げた。ケイは、手を前に組み、塩らしく肩を落としている。先生は頭を掻きながら「で?」と聞いてきた。僕は、白々しく「はい?」と答えた。


僕とケイは仲が良かった。ケイには嫌われたくなかった。ケイは優しいから。中学3年になり、ケイに彼女ができた。僕は喜んだ。中学で彼女が出来るなんて「ケイは大人だな」と思った。

ある日、ケイが僕に相談してきた。「今度、別の学校の女の子と遊ぶから、もし彼女に聞かれても、黙ってて欲しい」なんだそんなことか。僕が黙っていれば、ケイが喜ぶ。ケイは僕と友達で居てくれる。お安いご用だった。僕は「全然OK」と約束を交わした。

ケイが、他の中学の女の子と遊ぶ日、ケイの彼女から呼び出された。「ケイ連絡取れないんだけど、あんた、どこにいるか知らない?」

僕は、共感力が高い。ケイの彼女が何を求めているか、手に取るように分かった。彼女は、ケイを疑っているのだ。ケイが、他の女の子と遊んでいるんじゃないか?と思っているのだ。彼女の顔には「不安。事実が知りたい」そう書いてある。僕は、その気持ちを理解した。

僕は答えた。「別の女の子と遊んでるよ、なんかお前には内緒らしいけど。ケイに、俺が教えたこと言わないでよ?」

後日、ケイは彼女と別れた。僕は悲しかった。ケイが悲しそうにしていることが、悲しかった。ケイの悲しい感情に共感した。とても辛くなった。


僕は、目の前の相手が、今、何を望んでいるか、手に取る等に分かった。


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