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冴えないクリエイターの育てかた Fine

※「冴えない彼女の育てかた Fine」のネタバレを多少含みます。

「本当」を描く冴えない彼女

ある春の日、安芸倫也は桜舞う坂道で運命的に出会った少女・加藤恵をメインヒロインにした同人ゲームを制作することを思いつく。美術部に所属していながら、同人イラストレーターとして活動する澤村・スペンサー・英梨々と、学年1位の優等生でありがながら、ライトノベル作家として活躍している霞ヶ丘詩羽を誘い、blessing softwareを結成。やっとのことで1作目を発表した——。
(『冴えない彼女の育てかたFineパンフレット』2019年10月)

「冴えない彼女の育てかた」(以後「冴えカノ」)のストーリーは単純だ。いわゆる倫也のハーレム状態が延々と展開され続けるという、言ってみれば「ハーレムアニメ」の王道パターンだが、他のハーレムストーリーと決定的に異なるのは、メインヒロインの加藤を選びとっていくという「決断」する物語となっているところだ。「おまえたちがおれの翼だ!」(某マクロスF主人公)などとあやふやなかたちでどっちがメインヒロインなのかということを留保したりしない。

ただし、倫也はあくまでオタク男子である。ギャルゲーの世界観で生きているため、人の心や、女の子の心理などは考えることもなく、おのれの探究心のみに従って動いていく。通常のハーレムアニメでは、主人公を絶対的に認めてくれる母的な存在があらわれて、そんなところも包みこんでくれる。しかし、本作のメインヒロイン加藤は、そうしたオタク男子の独りよがりプレイに対しては、徹底して「怒る」。

忘れもしない、コミケのあと、加藤が倫也を「無視」して帰ってしまうシーン。あのときは、見ていられないほどに怖かった。オタク男子の独りよがりに対して「怒り」をあらわにしていく加藤。そこに、他のハーレムアニメにはない、「本当」がほんの少し入っている。

というのも、そもそも、現実(アニメのなかで)の女の子である加藤を「メインヒロイン」にした同人ゲームを作ろうと思いつくあたりからして、「本当」が入りこむ余地はあったのだ。リアルの女の子を「メインヒロイン」にしたゲームというのもわけわからないが、それはともかく、リアルの女の子である加藤をゲームで描いていくということは、リアルの女の子に向き合っていくことでもある。デートなどで街を歩き、脚本のシーンを再現していくことで、オタク倫也は「本当」を体験していくのだ。そして、「本当」に対して向き合おうとしない倫也に対して、加藤は徹底して「無視」し、「怒る」。そこに、単純なハーレムアニメとは一線を画す魅力がある。

メインヒロインになれない人生、出会えない人生

「本当」はそればかりではない。この作品の主人公は倫也であり、メインヒロインは加藤である。しかし、世の中、主人公になれたり、メインヒロインになれたりするばかりではない。メインヒロインになれなかったものたち。あるいは、メインヒロインに出会えない人たち。それが、きちんと描かれているところにも「本当」はある。「主人公」になれない、「メインヒロイン」になれないとき、人は涙するしかない。あるいは、別の何かに「賭ける」しかない。そのとき、「彼ら」「彼女ら」の「才能」が開花する。そういう、挫折しつつも、前向きに進んでいこうとする人間の姿が描かれていた。

僕は思った。メインヒロインに出会えない人生を仮定したとき、安芸倫也と加藤恵のような関係性を目の前にしたとき、どのように向き合えばいいのだろう。人生において、「加藤恵」が現れる確率は著しく低く、「主人公」になれることもそうあるわけではない。「加藤恵」を幸せモデルにしたとき、ほとんどの人間が「不幸」になってしまう。こうしたとき、人はどう現実と折り合いをつけるのか。映画館の9割の客が男性で、皆、何を観に来たのか疑問だった。アクション映画のマッチョさとは異なり、こうしたラブストーリーは「幸福」にフォーカスするものだから、「現実」の自分の境遇とを比較したとき、大変つらいものがあるのではないか。

そして、それは単純に「恋愛」だけの問題ではない。それは、彼らが成功したクリエイター、いわゆる輝かしい「夢追い人」であるという事実だ。

クリエイターであるということ

本作はラブストーリーであると同時に、同人ゲームを作って成功するというサクセスストーリーでもある。そこには、絵が上手く描けなくなる英梨々の姿もあるし、脚本を何度も何度も書き直したり、徹夜を繰り返す倫也や、他のメンバーの姿がある。それでも、みんなが集まって、協力して、ライバルであったサークルのメンバーとも力を合わせて進んでいく。とてもキラキラした姿が描かれていく。

これに対して、「加藤恵」を幸せモデルとするように、彼らの自己実現を幸せモデルにしたとき、僕たちの現実は「夢破れた人」だ。

彼らは高校生。学校の勉強そっちのけで、自らの好きなもののために寝食を忘れて熱中し、没頭し、成功して、やがて起業していく。

だが、僕たちは。何か、なしとげたいものはあったが、なんとなく大学に行き、何者にもなれずに、パンのために仕事に就き、かつての夢を「趣味」だなんていいながら細々といろいろな言い訳をしながら生きている。まさに「夢破れた人」。そして、その夢を捨てた僕たちが、この劇場版ではふとあらわれる。加藤からも捨てられ、六畳一間のアパートで暮らし、夢も捨てたサラリーマン……。そのとき、僕はハッとした。残念と言えば残念であるが、そのときの僕はなぜか「安心」したような心地がした。ああ、この境遇は、あのようにキラキラした青春を送った彼らにも訪れるのか……という妙な「安心」感。だが、当然、そんな結末はあるはずもなく、この「夢破れた人」エンドは劇中劇であった。実際の彼らは、起業して、高級マンションの一室で、いまも同じ仲間たちとワイワイとゲームを作っている。

彼らの倍近くも生きてきてしまった僕たちが、どうしたらまた、あのようなキラキラと輝く人生を手にすることができるのか。それは、彼らの生き方にある。傷つきながらも、まっすぐと情熱のままに、好きなものを恥ずかしげもなく好きと言えること、クリエイターとして、そういう情熱を全力で「行動」に注いでいく。それしかないのだ、というメッセージを、僕は読み取りたかった。エネルギーのようなものを呼び覚ましてくれるのが、今回の劇場版だったと思う。

家族と学校の姿について

本作で気になる点はもう一つある。それは「クリエイター」という点にあるのだが、彼らの生活の拠点は、高校生であるがゆえに当然学校空間である。そして、同人ゲームの製作は基本的に倫也の家だ。そこで浮き彫りになるのは、学校空間が、人間の出会いの場インフラとしてしか機能していない点と、家族の不在である。

本作の特徴は、「クリエイター」として生きていくという現代的な職業観に基づいているところにある。「好きなこと」と「得意なこと」を活かして、チームを組んで取り組んでいくという、極めて現代的な生き方だ。そして、ゲーム制作の締め切り間際になると、学校を休んだり、徹夜を繰り返したり、男子の部屋に女子が入り浸って泊り込んだりするという、学校教育的ではない生活を送っている。

このとき、注目したいことの一つが、「クリエイター」として、物を創作して生きていくためには、「学校」というものが障害物にしかなっていないということだ。もちろん、溜まり場としての「学校」に意義はあるし、「学校」行事的な面で、青春の記号的役割は果たしているが、物を作りたい人間にとって、時間的空間的束縛は障害でしかない。

もう一つは、倫也の家に女子たちが入り浸ることが多いが、あの一軒家に「家族」の存在がないこと。彼の家は常にオープンなオフィスであり、女子側の親も何日もお泊りをしていても、なんらのストップもかからない理解のある親たちである。通常、毎日のように年ごろの異性を招きいれてよしとする家族はそう多くはないのではないか。

もちろん、フィクションはフィクションなのだが、ここでは「クリエイター」として生きるうえで問題となる「社会」と「家族」が見えてくることがおもしろい。現代は教育改革の必要が叫ばれ、定期試験廃止、クラス担任制廃止、宿題廃止、など先進的な改革を行って、より「学力」にフォーカスした「自由」な教育に変わりつつあるが、やはりどうしても戦後日本の「画一的」な教育がまだまだ支配的ななかで、手を動かす時間が膨大に必要な「クリエイター」がどう生きていくかという問題にもなると思う。

現代の教育観はグローバル社会のなかで強く生き抜くための柔軟で、クリエイティブな発想力といったものが求められているなかで、倫也たちのような「クリエイター」の芽をいかに潰さない教育システムを作っていくかを考えねばならないだろう。時間割が決まっていて、それを時間通りにこなしていくという、親が9時5時で労働をする社会を前提にした社会設計と教育の時間設定では、ライフスタイル自体が多様化した社会においてはナンセンスだ。

クリエイターの育てかた

ただ、本作では、時間的拘束以外の束縛を「学校」が与えてくることもない。つまりは、「社会」も「家族」も、誰も「クリエイター」の邪魔をしていない。本当に好き放題やらせている。ハーレムアニメに特有の「都合の良さ」といえばそれまでだが、「クリエイターの育てかた」ということを考えたとき、このアニメは、大きなヒントを宿しているように思える。

以前、カリフォルニア州サンディエゴにある高校「High Tech High」(ハイテク・ハイ)を舞台にした映画を観たことがある。そこでは、時間割も教科書もクラスもテストもない。評価の対象となるのは、年度末に行われる「展示会」でのアート作品だ。生徒たちは、ある教科での問いに対して、「アート作品」で答える。問題は何か、知識を調査し、理解し、仮説を立て、検証し、答えを出し、それをモチーフにした作品をチームで制作する。「展示会」間際は、当然、徹夜の連続になる。間に合うか、間に合わないかの瀬戸際で最後の力をふりしぼる。そのときの、間に合ったものの歓喜と達成感と、間に合わなかったものたちの悔しさがあらわになる。間に合わなかったものたちは泣き叫ぶ。しかし、それが、次年度へのモチベーションにつながっていく。これを見たときに、何もグラウンドで大声出すだけが「根性」ではないと思った。これこそが社会で役に立つ力のような気もするし、「クリエイターの育てかた」でもある気がする。

「冴えカノ」の映画からこんなところまで来てしまったが、「夢破れた者」たちである僕らが、どのように生きていくべきかということと、彼らのようなこれからのクリエイターを育てていく社会をどのように作っていくか、といったことを考えてみた。ハーレムアニメ等を見て、ああいいなあ、で夢で終わってしまうことが多いなかで、「理想」があるのならば、その「理想」に向けてどのように進んでいくべきかを考えたい。いざ、ハーレム(違)。

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アオノカゼ

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アートのこと、生活のこと、旅のこと、風のように吹きすぎるまなざし。詩になるまでを、エッセイや写真で辿ります。

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